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2011年03月30日

「愛は捨てなくてはいけないもの」という考え

 10年以上ウェブになんか書いているので、この話を書くのは初めてじゃない気がするが、いまどきのように、クライシスが訪れるたびに、私の表面に上ってくるストーリーである。しかも今回は、私が全部書かなくてもばっちりまとめてくれてるサイトを発見した。
 それは、芥川龍之介の『杜子春』と、下敷きとなった唐代の小説『杜子春伝』の違いである。中国の方が日本語でまとめてくれた。
 こちらをぜひ読んでみて下さい。
 http://www.sju.js.cn/s/23/t/57/10/ea/info4330.htm

 ここで、唐代の「仙人への憧れ」と20世紀前半の「(家族)愛」との違いが明らかにされる。7世紀には、自分の子どもが頭が避けて死んでしまったのを見て、杜子春は思わず声を出してしまい、その結果、仙人になれない。物語は、「あーあ、残念でしたね、この人は『愛』を捨てられなかったために仙人になれませんでしたね」と、思いっきり突き放して終わる。近代人は理解できんわね。
 そして、ご存知芥川版の杜子春は自分のために鞭打たれている母を見て「お母さん!」と声をあげてしまった杜子春がやはり千人になれない。しかし、杜子春がそれでも満足し、「すがすがしい気持ちになった」と書かれている。「仙人の高みに上るより、今ここにある愛が大事だ」と。

 私が中国の唐代に書かれた小説『杜子春伝』を読んだのは1995年前後だと思う。そのとき私は、「なんと本当のことが書いてあるんだろう」と感激し、「あくたがわ〜〜、そんな母の無償の愛を求め続けるから自殺したくなっちゃうんだよ〜〜」と100年前に起きた自死に対して地団駄を踏んだものである。
 芥川は赤ん坊のときにお母さんが精神障害を起こして育児放棄(ドクターストップかもしれないけど)になってしまうのだけれど、芥川は死ぬまで母への愛を希求し続けた。文字通り死ぬほど希求し続けたわけだ。

 というわけで、戦争が起きようが災害が起きようが、淡々と、怒りも悲しみも、同胞や郷土や家族への愛着も捨てて、微笑を浮かべて生きている、というのが悟りかもしれない、と、7世紀の人は考えていたわけです。それって、すごくホ・オポノポノ的でない? 
 
 今私が考えている考えが、この記事を読んでいるあなたのお気に召すかどうかは知らない。とりあえず、一般メディアの潮流とはずいぶん違うと思う。テレビのようなマスメディアとも、ツイッターのようなパーソナル・メディアとも。

 私は、よくもわるくも芥川のような考えは「近代的」であると思っている。
 どうして「近代的考え」が生まれたかというと、7世紀の人は不幸を「あきらめて受け入れる」しかなくって、そこから近代までの人類の道のりというのは、「不幸は減らすことができる、人間は幸福をコントロールすることができる」という方針に基づくものだったからだ。ヘタすると、「子どもの頭が割れるのを見て声をあげてしまったぐらいでは仙人になれませんよ、なりたかったら全部あきらめてください」と説く7世紀の小説が、「野蛮な、遅れた考え」だと思い、悟りのための哲学を「訂正」してしまった可能性すらあるのだ。
 21世紀に入って、その方針はだいたい突き詰め終わってしまって、「それじゃやっぱり幸せになれない」ということに気づいて初めて、新しい方向に人類はいくのだと思う。その世界というのは、自分は自分の面倒だけを徹底的に見る、という、その代わり、何が起こっても他人の面倒をみる必要はない(みんな見てもらわなくても元気)、「近代」から見るとかなり寂しい、従って、かなり小乗的な世界かもしれないのだ。

 芥川の「その先」をビジュアル化する人がこの先少しずつ現れ、それがテレビに流され、ネットとか全然タッチできない人(たとえば、『朝まで生テレビ』を見て原発について勉強している父)とかにまで共有されたとき、人類って次の局面に進むんじゃないかな、と思っている。

 私が、「うっわー、この人、『次の局面』をビジュアル化してくれたぜ」と思っているのは、映画監督のクリストファー・ノーランだった。最新作『インセプション』は今年のオスカーの候補にはたくさんなったが残念のことにほとんど賞をとれないまま終わってしまったけど、家族の元にたどりついた主人公に「それで本当にいいんかい?」と挑発をけしかけるようなラスト・シーンは、心憎いばかりだった。……あ、今書いてて涙じわっと出てきちゃう。私、本当にクリスに「救われた〜」と思ったんだ。

 ノーランは『メメント』以来ぶっとんだ映画を撮る人だが、記者会見でプロデューサーとして壇上に一緒に上がった実直型の女性(映画のが妻で二人の子供とLAで暮らしてる、っていうの聞いたときもクレバーさを感じてくらくらきた。女優がミューズで主演に据えて私生活でも関係を持ってしまうウッディ・アレンとかポランスキーとはまったく違う世界観で生きてる。

 話それたが、そういう人が現実に出てきて、しかも、作品的にも商業的にも成功を収めているのだ。

 幸か不幸か、私はわりと簡単に「自分が助かりたい」と思ってしまう人間である。でも本当のところはわからない。ひとさまの「私ってこういう人間です」という自己認識を聞いてると「わーずれてる」と思うことも少なくないから。私の次の課題は、「自分を助けた後」微笑んでいられるかどうか、だ。

 なんと、東京に帰ってきてからずっと、頭が痛いのです。自分の身体、反応してるのかもと思ってしまう(私の身体が敏感なのは自己診断じゃないです、私に触れたすべてのマッサージ関連の先生が反応が早いという) でも、一回のメイクラブで想像妊娠かと思うほどホルモンバランスが変わっておっぱいぱんぱんになっちゃったりするので、今回も「想像健康障害」であるといいと思う。


なんか今回は、「応援よろしくお願いします」ってまっすぐにいえない内容な気がするのですが、
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(追記)ウォーレン・バフェットだったら、今風評被害で値段が下がっている野菜を黙って買いそうだ。つまり、ここで野菜を買えないという選択は、地元の支援とかいう問題を超えて、その選択パターンが生活全体に「乏(豊の反対)」をもたらすとはいえまいか?
posted by 石塚とも at 18:56| ちょっと哲学的なこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする