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2019年08月27日

『産地直送、数量限定の物語』(あなわた・9)

『産地直送、数量限定の物語』


《あなたが何より救われるのは、「あなた自身の物語」を見つけること。
そしてそのために私がお手伝いできるのは、「わたし自身の物語」を語ること》
略して、「あなわた」

(これまでの投稿)
その1 こちら
その2 こちら
その3 『サピエンスと物語と健康』 こちら
その4 『物語にのっとられて生命を落とした人々』 こちら 
その5 『「救われない物語」を求めてしまう人の心理』 こちら 
その6 『「物語を語る力」のインストール』 こちら 
その7 『物語は代謝する』  
その8 『ミディアム・レアな物語』 こちら
  

恒例、結論のおさらい、「自分の物語を発見し、語ることで、人は救われる」。

 前回まで、8回にわたって、「自分も語ることで救済を見出し、読む人の救済のお手伝いにもなる互助的なテキストをこれから書きます、そしてそれを有料配信します」という趣旨のうち、テキストがどういう意図でどのような内容を配信するのかはだいたい書き終えました。

最後の「有料配信します」というところについて、述べたいと思います。

 もしも有料にしなければ無料、つまり、一般的なブログのように誰でも無制限にすぐ見られる状態になるわけですが、そうしないというのは最初から決めていました。それは、この「物語を語り、読んだ人の物語能力も耕す」という行為は、参加する人にとってかなりのインパクトを与えることになる(自己啓発的に言うと、「人生が変わる」?)ので、無防備にさらしておくというスタイルに合うものではない、ある程度心の準備をして読む人に届くように、なんらかの形でフィルターをかけたいと考えていました。
 お金を払って鍵をあけて読む、というスタイルでなくてもいいのですが、 (たとえば読むことを希望する方を面接するとか書類選考するとか)、そうしたら書くためのエネルギーを読み手選考のエネルギーに回さなければいけない、っていうか、かなりのエネルギーが必要で書くためのエネルギーが残らないほどになりそう。「お金を払っていただき鍵をあけてもらう」というのは、代わりの適切なハードルになると思いました。

 それと、今回のテキストの配信で、もう一つ決めていたことがあります。それは、「有料」かつ「数量限定にする」ということです。

 「自分の物語を語る、受け止められる、相手の物語を語る力を耕す」という有機的変化は、あまりたくさんの人を相手にすると、薄まってしまう、というか、自分にも相手にもその変化を起こすには数の適切さ、というものがあると考えたからです。
 ネットで、デジタルコンテンツを配信する、というのは、機械の力を借りてそれができてしまうため、ひとりの人間のキャパシティを超えて、大量に出回ることが可能で、今ではそのことが当たり前に感じられるようになっています。そういう使命をもったコンテンツもあるでしょう。でも、今回のテキストは、手作りのパンみたいなもので、1日にたくさんできるという性質のものではないのではないか、と考えています。
 書き手と読み手の「気配」をお互いに感じられる数が、適正なのではないかと考えました。

 このブログの読者は、現在1日150人を上回ることはないので、「読者が多すぎちゃったらどうしよう」って心配するレベルではとてもとてもないのですが、それでも、イメージを言うと、多くて100、最大の最大にまで増やして300ぐらいじゃないかなー。

 で、それはそれで頑張るとして、「多くの人に触れてもらう物語」というのは、それはそれで書きたいと思っています。わー、書くことがいっぱいあるぞ、幸せだぞ^^。

 あ、それから、今後、「私の物語」ではないテキストを書くこともあると思うんですけど、それらも「有料」で「数量限定」で配信しようと思っています。

 私、ブログ更新できない間も、ツイッターやフェイスブックで、たとえば「これを買った」「これ(商品)がよかった」というような投稿はしてきたんですけど、それは単なる買い物情報ではなくて、「その品物のことは知らなかった」「知っているけど、自分に必要なもの(とか、そんなにいいもの)とは思わなかった」「自分はものをたくさん持たないようにしている」という価値観に揺さぶりをかける、つまり、「物の情報」ではなくて「価値観の情報」をしています。それまで違う価値観を持っていた人は、その価値観を揺さぶられることがなくても、「それでいいんだ」と思ってそうしてたしこれからもするのだと思います。だったら、私が、無料で、「こういいうの、いいんじゃない?」と思う必要はないなあ、と前から思っていました。
 「誰かに自分の存在を知ってもらう」ことがネットで情報発信することの目的なら、その情報は誰にでもアプローチしやすい(無料、誰でも見られる)ほうがいいでしょう。でも、その目的が達成されれば無料で公に公開って、ネットでの情報配信の仕方としては価値が下がってくるのですよね。これは、私だけが感じていることではないのではと思います。

 なお、具体的なお支払い方法についてなんですが、「月額定額制(その月に書いたものが全部読める)」にしたかったのですが、「月額定額」で「数量限定」で販売してくれる配信サービスというのを見つけることができず、当面は、1記事単位で課金することとしました。
 「月額定額制」で「数量限定」のサービスが見つかり次第、移行したいと考えています。


 コンテンツの発信方法についての説明はだいたい終わりです。
(不足があったらまた書き足します)。

 続く(たぶん次が最終回)。

 面白かったら、下から
応援拍手や感想を送ってくださいね。
参考にさせていただきます。


2019年08月26日

『ミディアム・レアな物語』(あなわた・8)

『ミディアム・レアな物語』

《あなたが何より救われるのは、「あなた自身の物語」を見つけること。
そしてそのために私がお手伝いできるのは、「わたし自身の物語」を語ること》
略して、「あなわた」

(これまでの投稿)
その1 こちら
その2 こちら
その3 『サピエンスと物語と健康』 こちら
その4 『物語にのっとられて生命を落とした人々』 こちら 
その5 『「救われない物語」を求めてしまう人の心理』 こちら 
その6 『「物語を語る力」のインストール』 こちら 
その7 『物語は代謝する』 こちら 

恒例、結論のおさらい、「自分の物語を発見し、語ることで、人は救われる」。

前回、物語というのは「語り」であり、「語り」は聞いてくれる人を必要とする、ということを書きました。
物語を見つけ、語ることはそこまででもお疲れ様ではあるけど、でも、誰も聞く人がいなければ、物語はまだ「卵」の状態。その人と周囲に影響を与える活性化はまだ始まっていません。ちょうどぬるま湯を注ぐ前のドライ・イーストです。

では、もしも語りを受け止めてくれる人がいなかったら?

「受け止める」というのは、真剣に耳を傾け、茶化したりましてや否定や攻撃などしない、ということなので、聞いてくれる人がゼロ、という状態はもちろん、このような適切でない聞き手は、聞き手のうちに入りません。

では、どうやってそのような聞き手を獲得していったらいいのでしょうか。

それは、当たり前ですが、「語りがうまくなること」にあります。

カウンセラーや傾聴ボランティアと呼ばれる「聴く」ことに特化した活動を行う人たちはいますが、この人たちは「聴く」訓練を受けており、なおかつお金を払うことでクライアントの「語る」時間を確保してくれるので、語る技術が低いままでも聞き続けてもらうことができます。
そして、こういう人たちに語り続けても、もちろん語る技術が伸びる余地はあるでしょう。「繰り返す」ということには、力があるものです。

しかし、一般生活の中では、語りの技術が低ければ、相手の拒絶をもたらしてしまうことはありえます。聞き手が狭量であることはままありますが、それだけではないのです。あなたがごく普通の共感性を持っている人間であったとしても、自己憐憫が繰り返されたり、誰かを攻撃し続けたり、感情が激して語り口が荒々しかったりする人の話を聞き続けるのは大変ではないでしょうか。

一方で、前回「商業化された物語である必要はない」と書きましたが、自分を語る物語の中には、ことさらに大胆な演出があったり、主人公が非凡な能力を持っていたり、あっといわせるオチがある必要はありません。もしも自分の物語に本当にそういう要素があるという場合は無理やり削る必要もなくてそれを素直に入れたらいいと思うんですけど、ただ、話をハデにするためにそうした要素を盛り込んでいると、そうした、人をひきつける要素にばかり注意がいってしまって、「自分の物語」というところから軸がぶれてしまいますので。

 ちなみに、自助グループで、受け止められないような話がシェアされた場合、聞く人はどうするかというと、もちろん遮ったり否定することはできないので、ではどうするかというと、立ち上がって、その場を離れ(退室)します。
 相手の「語る権利」を尊重しつつ、自分の「心の安定を守る権利」も維持するとそうなります。
 映画の中では、何かに苦しんでいる主人公が自暴自棄になってしまい、グループで攻撃的な発言をしてしまい、周囲の人を嫌な目にさせる、というシーンを何回か見たことがあるのですが(2010年ジョン・キャメロン・ミッチェル監督の『ラビット・ホール』ではニコール・キッドマンが、2013年ラース・フォン・トリアー監督の『ニンフォマニアック』ではシャルロット・ゲンズブールがこうした役をやってました)、だから、こういうことは、現実には起こらないんですけどね。ほら、市場化された物語は、話をよりドラマティックにしようとして登場人物たちに賢くない行動をさせます。
 で、語る側は、相手がどういう反応をしようが、自分が最後まで語る権利というのはあるんですけど、でも、話している途中で聞き手が出て行ってしまったら、やっぱり気にはなるわけです。
 そこで気づきが起こって、「私の言い方に問題があったかな」という自己観察からスキルの向上につながっていくんですけど。
 

 相手に自分の物語を受け止めてもらえる方法、というのはいくつかあり、私はそれらも規則化、言語化しました(なにしろ森の中の珍獣なので)。それらはコンテンツの中で語っていきたいと思いますが、ここで一つの基準だけお知らせしたい、と思います。

それは、自分の物語、というのは、「加工されすぎていたら」あなた自身を語ることにならないけど、「まったく加工されない、ローのままでも受け手にとってはちょっと厳しい」ということ。
「加工されている」というのは、どこかで聞いたような話の類型に自分の物語をあてはめてしまうこと。形が同じ、工場出荷のハムみたいに。
「ローなまま」というのは、あまりに生々しい、自分でも未整理な感情がほとばしり出てしまうこと。味付けも加熱もしていない、生肉みたいに。

他の誰でもない「あなたの物語」で、なおかつ、「感情には溺れないが語り手と聞き手を共感で結ぶに十分な感情の豊かさは保っている」。
 加工されすぎでも、生でもない、いわば、「ミディアム・レア」な物語。

 こういう物語が、聞き手にとって負担にならずに興味と共感をもって受け止められ、そして素晴らしいことに、聞き手の「語る力」も増幅させます。

 そして、「ミディアム・レアな物語」を語れるようになるためには、その法則を知ることももちろんですが、「ミディアム・レアな物語」を聴くことももちろん大きく良い影響をおよぼします。
 その調子をそのまんまインストールすればいいわけですからね、のちにご自分で微調整も可能ですし。

 で。私は自分がその「ミディアム・レアな物語を語る珍獣」だと思って…(以下省略)。

 続く。

面白かったら、下から
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参考にさせていただきます。


2019年08月24日

『物語は代謝する』(あなわた・7)

『物語は代謝する』

《あなたが何より救われるのは、「あなた自身の物語」を見つけること。
そしてそのために私がお手伝いできるのは、「わたし自身の物語」を語ること》
略して、「あなわた」

(これまでの投稿)
その1 こちら
その2 こちら
その3 『サピエンスと物語と健康』 こちら
その4 『物語にのっとられて生命を落とした人々』 こちら 
その5 『「救われない物語」を求めてしまう人の心理』 こちら 
その6 『「物語を語る力」のインストール』 こちら 


まず、結論のおさらい、「自分の物語を発見し、語ることで、人は救われる」。

 前回、
「自分の物語は商業ベースの物語とは違うものだ」
「自分に酔うナルシシズムや自己自慢、自己卑下とも違うものだ」

 ということを書きました。

 その違いで一つ書いておきたいのは、「自分の物語というのは、永遠に同じ筋書きではない、しばしば変化する」ということです。
 それは、その物語が事実ではないから、ではありません。物語を語る私が変化するからです。
 自分の物語が語られるとき、当然ながら、今まで誰にも共有されなかった事実が浮き上がってくることがあります。とくに、悲しみや怒りなど、自分も他人も受け止めるのが困難な感情を伴う物語は、自分の心の奥底にしまわれて、長い間誰からも発見されない、ということが起きてもおかしくありません。
 一方で、物語はあくまで「物語」で、つまり学術論文やジャーナリズムではないので、完全に裏をとるまで語られてはいけない、ということはありません。「記憶がおぼろだが」というふうに語ってもいいのです(一方、ですから、それを「100%事実」と言い切ってはいけないし、学術やジャーナリズム、裁判などに引用することはできないです)。
 そして、「物語」ですから、ただ語るだけではなく、聞き手がいて完成します。受け止めてくれる人が必要です。「あなたの話を聞いていますよ」というメッセージを受け取れた時、人はとてもこころづよいものです。それだけでも癒しになりますよね。
 
 そして、その物語の一番の聞き手は、実は語り手本人であり、本人は、自分の物語を反芻しながら、自分に対する新たな気づきを深めていきます。

 その経過の中で、おぼろだった記憶が鮮やかに思い出される場合もあるし、二度と消えることはないのではないかと思うほど脳裏にしみついていた記憶が、薄れていく場合もあります。

 自分に酔うための自慢、卑下は、周囲の人にも自分にも、固定した自己イメージを与えます。 
 それと反対に、「自分の物語」というのは、自分に認識されたとき、役目を終えます。その人は、次の物語に向かって旅立ちます。
 「自分の物語」は、細胞と同じだなと思います。だから、あなたにも「自分の物語を語ること」をちょっとお勧めするんですけど。代謝しないとその人の中で何かが詰まる。

 あなたは、自分の物語を見つけ出すだけでなく、代謝させていますか?

 続く

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