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2019年08月26日

『ミディアム・レアな物語』(あなわた・8)

『ミディアム・レアな物語』

《あなたが何より救われるのは、「あなた自身の物語」を見つけること。
そしてそのために私がお手伝いできるのは、「わたし自身の物語」を語ること》
略して、「あなわた」

(これまでの投稿)
その1 こちら
その2 こちら
その3 『サピエンスと物語と健康』 こちら
その4 『物語にのっとられて生命を落とした人々』 こちら 
その5 『「救われない物語」を求めてしまう人の心理』 こちら 
その6 『「物語を語る力」のインストール』 こちら 
その7 『物語は代謝する』 こちら 

恒例、結論のおさらい、「自分の物語を発見し、語ることで、人は救われる」。

前回、物語というのは「語り」であり、「語り」は聞いてくれる人を必要とする、ということを書きました。
物語を見つけ、語ることはそこまででもお疲れ様ではあるけど、でも、誰も聞く人がいなければ、物語はまだ「卵」の状態。その人と周囲に影響を与える活性化はまだ始まっていません。ちょうどぬるま湯を注ぐ前のドライ・イーストです。

では、もしも語りを受け止めてくれる人がいなかったら?

「受け止める」というのは、真剣に耳を傾け、茶化したりましてや否定や攻撃などしない、ということなので、聞いてくれる人がゼロ、という状態はもちろん、このような適切でない聞き手は、聞き手のうちに入りません。

では、どうやってそのような聞き手を獲得していったらいいのでしょうか。

それは、当たり前ですが、「語りがうまくなること」にあります。

カウンセラーや傾聴ボランティアと呼ばれる「聴く」ことに特化した活動を行う人たちはいますが、この人たちは「聴く」訓練を受けており、なおかつお金を払うことでクライアントの「語る」時間を確保してくれるので、語る技術が低いままでも聞き続けてもらうことができます。
そして、こういう人たちに語り続けても、もちろん語る技術が伸びる余地はあるでしょう。「繰り返す」ということには、力があるものです。

しかし、一般生活の中では、語りの技術が低ければ、相手の拒絶をもたらしてしまうことはありえます。聞き手が狭量であることはままありますが、それだけではないのです。あなたがごく普通の共感性を持っている人間であったとしても、自己憐憫が繰り返されたり、誰かを攻撃し続けたり、感情が激して語り口が荒々しかったりする人の話を聞き続けるのは大変ではないでしょうか。

一方で、前回「商業化された物語である必要はない」と書きましたが、自分を語る物語の中には、ことさらに大胆な演出があったり、主人公が非凡な能力を持っていたり、あっといわせるオチがある必要はありません。もしも自分の物語に本当にそういう要素があるという場合は無理やり削る必要もなくてそれを素直に入れたらいいと思うんですけど、ただ、話をハデにするためにそうした要素を盛り込んでいると、そうした、人をひきつける要素にばかり注意がいってしまって、「自分の物語」というところから軸がぶれてしまいますので。

 ちなみに、自助グループで、受け止められないような話がシェアされた場合、聞く人はどうするかというと、もちろん遮ったり否定することはできないので、ではどうするかというと、立ち上がって、その場を離れ(退室)します。
 相手の「語る権利」を尊重しつつ、自分の「心の安定を守る権利」も維持するとそうなります。
 映画の中では、何かに苦しんでいる主人公が自暴自棄になってしまい、グループで攻撃的な発言をしてしまい、周囲の人を嫌な目にさせる、というシーンを何回か見たことがあるのですが(2010年ジョン・キャメロン・ミッチェル監督の『ラビット・ホール』ではニコール・キッドマンが、2013年ラース・フォン・トリアー監督の『ニンフォマニアック』ではシャルロット・ゲンズブールがこうした役をやってました)、だから、こういうことは、現実には起こらないんですけどね。ほら、市場化された物語は、話をよりドラマティックにしようとして登場人物たちに賢くない行動をさせます。
 で、語る側は、相手がどういう反応をしようが、自分が最後まで語る権利というのはあるんですけど、でも、話している途中で聞き手が出て行ってしまったら、やっぱり気にはなるわけです。
 そこで気づきが起こって、「私の言い方に問題があったかな」という自己観察からスキルの向上につながっていくんですけど。
 

 相手に自分の物語を受け止めてもらえる方法、というのはいくつかあり、私はそれらも規則化、言語化しました(なにしろ森の中の珍獣なので)。それらはコンテンツの中で語っていきたいと思いますが、ここで一つの基準だけお知らせしたい、と思います。

それは、自分の物語、というのは、「加工されすぎていたら」あなた自身を語ることにならないけど、「まったく加工されない、ローのままでも受け手にとってはちょっと厳しい」ということ。
「加工されている」というのは、どこかで聞いたような話の類型に自分の物語をあてはめてしまうこと。形が同じ、工場出荷のハムみたいに。
「ローなまま」というのは、あまりに生々しい、自分でも未整理な感情がほとばしり出てしまうこと。味付けも加熱もしていない、生肉みたいに。

他の誰でもない「あなたの物語」で、なおかつ、「感情には溺れないが語り手と聞き手を共感で結ぶに十分な感情の豊かさは保っている」。
 加工されすぎでも、生でもない、いわば、「ミディアム・レア」な物語。

 こういう物語が、聞き手にとって負担にならずに興味と共感をもって受け止められ、そして素晴らしいことに、聞き手の「語る力」も増幅させます。

 そして、「ミディアム・レアな物語」を語れるようになるためには、その法則を知ることももちろんですが、「ミディアム・レアな物語」を聴くことももちろん大きく良い影響をおよぼします。
 その調子をそのまんまインストールすればいいわけですからね、のちにご自分で微調整も可能ですし。

 で。私は自分がその「ミディアム・レアな物語を語る珍獣」だと思って…(以下省略)。

 続く。

面白かったら、下から
応援拍手や感想を送ってくださいね。
参考にさせていただきます。


2019年08月24日

『物語は代謝する』(あなわた・7)

『物語は代謝する』

《あなたが何より救われるのは、「あなた自身の物語」を見つけること。
そしてそのために私がお手伝いできるのは、「わたし自身の物語」を語ること》
略して、「あなわた」

(これまでの投稿)
その1 こちら
その2 こちら
その3 『サピエンスと物語と健康』 こちら
その4 『物語にのっとられて生命を落とした人々』 こちら 
その5 『「救われない物語」を求めてしまう人の心理』 こちら 
その6 『「物語を語る力」のインストール』 こちら 


まず、結論のおさらい、「自分の物語を発見し、語ることで、人は救われる」。

 前回、
「自分の物語は商業ベースの物語とは違うものだ」
「自分に酔うナルシシズムや自己自慢、自己卑下とも違うものだ」

 ということを書きました。

 その違いで一つ書いておきたいのは、「自分の物語というのは、永遠に同じ筋書きではない、しばしば変化する」ということです。
 それは、その物語が事実ではないから、ではありません。物語を語る私が変化するからです。
 自分の物語が語られるとき、当然ながら、今まで誰にも共有されなかった事実が浮き上がってくることがあります。とくに、悲しみや怒りなど、自分も他人も受け止めるのが困難な感情を伴う物語は、自分の心の奥底にしまわれて、長い間誰からも発見されない、ということが起きてもおかしくありません。
 一方で、物語はあくまで「物語」で、つまり学術論文やジャーナリズムではないので、完全に裏をとるまで語られてはいけない、ということはありません。「記憶がおぼろだが」というふうに語ってもいいのです(一方、ですから、それを「100%事実」と言い切ってはいけないし、学術やジャーナリズム、裁判などに引用することはできないです)。
 そして、「物語」ですから、ただ語るだけではなく、聞き手がいて完成します。受け止めてくれる人が必要です。「あなたの話を聞いていますよ」というメッセージを受け取れた時、人はとてもこころづよいものです。それだけでも癒しになりますよね。
 
 そして、その物語の一番の聞き手は、実は語り手本人であり、本人は、自分の物語を反芻しながら、自分に対する新たな気づきを深めていきます。

 その経過の中で、おぼろだった記憶が鮮やかに思い出される場合もあるし、二度と消えることはないのではないかと思うほど脳裏にしみついていた記憶が、薄れていく場合もあります。

 自分に酔うための自慢、卑下は、周囲の人にも自分にも、固定した自己イメージを与えます。 
 それと反対に、「自分の物語」というのは、自分に認識されたとき、役目を終えます。その人は、次の物語に向かって旅立ちます。
 「自分の物語」は、細胞と同じだなと思います。だから、あなたにも「自分の物語を語ること」をちょっとお勧めするんですけど。代謝しないとその人の中で何かが詰まる。

 あなたは、自分の物語を見つけ出すだけでなく、代謝させていますか?

 続く

面白かったら、下から
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参考にさせていただきます。


「物語を語る力」のインストール(あなわた・その6)

《あなたが何より救われるのは、「あなた自身の物語」を見つけること。
そしてそのために私がお手伝いできるのは、「わたし自身の物語」を語ること》
略して、「あなわた」

(これまでの投稿)
その1 こちら
その2 こちら
その3 『サピエンスと物語と健康』 こちら
その4 『物語にのっとられて生命を落とした人々』 こちら 
その5 『「救われない物語」を求めてしまう人の心理』 こちら 


今回は、その6 『「物語を語る力」のインストール』

更新期間がまた2か月あいてしまいましたが、その間、「自分の物語作り」に忙しかったのです^^;;
とにかく続きを書きたいと思います。

まず、結論のおさらい、「自分の物語を発見し、語ることで、人は救われる」。

逆に、救われてない状態というのは、誰かに物語をのっとられちゃってること。

 では、救われてない状態から救われている状態に、つまり「誰かの物語にのっとられちゃってる状態」から「自分の物語を探し、発見につなげる状態」にまで軌道修正するにはどうしたらいいのか、というのが今回書こうとしているお話。

 まず、「自分の物語を探し、語ることのどこが難しいのか」というお話からです。

 今からちょうど一年ぐらい前のことですが(2018年の9月)、韓国の人気ヒップホップグループ、BTSが、国連総会でスピーチを行いました。それは、ユニセフの、若者たちに無限の可能性を感じてもらうキャンペーンの一環で、彼らは、若者たちの世界中の若者たちに向けて、「自分自身を語ろう」というメッセージをスピーチしました。
 ユニセフのこちらのページ https://www.unicef.or.jp/news/2018/0160.html からその記事とスピーチの動画が見られます。

 で、「かつて、他人が自分をどう思うかを気にするあまり、自分の声を失ってしまった」経験があるという、リーダーのRM(キム・ナムジュン)は、次のようなメッセージを語りました。
「あなたの名前は何? 何にワクワクし、何に心が踊りますか?」

 いいスピーチだけど、でも、この質問はちょっと難しいんじゃないか、と、これを聞いて、私は思った。

 なぜかというと、本当に自分がわからなくなってしまった人は、「何にワクワクするか」なんて、もう感じることができなくなってしまっているから。
 さらにいうと、自分の物語というのは「持っていいものだ、探していいものだ」という意識が欠落してしまっているから。
「自分を探したら、罰せられる」。そういう気持ちがインストールされてしまうと、自分ひとりの力でそこから抜け出すことはとても難しい。
 自分以外の「自分の物語」を探す人を攻撃するようになったりして、そうなると本人の「自分の物語を探す力」は干からびて、フリーズドライ状態になってしまう。
 自分の物語を探そうとする人たちに、安全な環境を提供できない社会へと向かってさえしまう。

 しかも、「自分の物語」というのは、その人本人にしか、それが何なのかわからないもの。

 物語は心の中にあるので、自分以外の人がその人の「自分の物語」がどういうものなのかを知ることができないのです。
 ということは、周囲の人が、「あなたの物語は、こうでしょ」と教えてあげることはできない、ということです。
 それから、誰かがが他の人の物語にのっとられちゃってる状態で、「これが私の物語なんです」と断言したら、「それは嘘です!」と言うこともできないということです。多少の指摘はできるかもしれないけど(他人にのっとられた物語というのはいくつか特徴があります)でも確証は得られないし、本人が「いいえ、あってます!」と断言したらそれ以上先に進まない。

 では、誰かが自分の物語を語り始められるようにするために、つまりそれは自分の人生を生き始めるためにどうしたらいいか、というと、
「私自身の物語を語り続けること」
 回り回ってこれなんです。

 これによる最初の大きな効果は、相手に、
 「自分の物語を語ってもいいのだ(罰されないのだ)」
 という肯定感を持ってもらうことです。

 自分の物語を語れなくなってしまっている人というのは、
「そうしていいのだ」という考えをどこかで破壊されてしまっているので。

 ところでこれを読んでいるあなたは、
「自分の物語を持っていいのだ」
 って、思ったこと、ありますか?

「ある」という人も「ない」という人も
「考えたことない」という人も
「自分の物語って何か、まだいまいちよくわからない」という人も
いると思いますが、
はっきりしていることは、
「自分の物語を探していいのだ」という気持ちを持っているかどうかは、
子どもの頃の刷り込みに影響されます。
子どもの頃、周囲(多くの場合、家族)が、自分の物語を探そうと努めていれば、自分にもその習慣が、自然と身につくことでしょう。子どもは、自分の仕草を身につけるのに周囲の人のやっていることを真似る以外に方法がないので。

 反対に、自分の物語を探すことを自分にも周囲にも禁じようとする人に囲まれていたら、その人自身もそうなってしまうでしょう。
 
 周囲の人からの影響によってその子どもの中に母語(母国語)、というコミニュケーションツールが刷り込まれていくように、周囲の人の影響によって自分を発見する「物語ツール」というものも刷り込まれていきます。母国語が、ツールであって影響を受けた人の考えや欲望をそのまま取り込むわけではないように、物語もツールであって自分の物語は自分で作ることになりますが。

自分の物語というのは、市場で販売されている物語や映画とは違うので、ことさらに大きな仕掛けやオチ、大事件があるというわけではないし、演出に合わせて大声や涙声で語られることもなく(自然に涙が出てしまう可能性はゼロではないですが)、淡々としていることもしばしばです。

「淡々としている」で思い出したけど、『この世界の片隅で』のすずさんの物語は、商業作品だけど、「わたしの物語」の原型に近い形で商業化されてるかも。(映画を見てない方は、ぜひご覧ください。私は原作は読んでないんですが)。
 すずさんの人生にはいくつか大事件はあったけど、それがなかったとしても、すずさんはすずさんと思わせる「軸」があった。私たちが探したいのは、「出来事」ではなく「軸」の方なのです。
 すずさんがどれだけ自分を語っても、聞き飽きたり、気分を悪くさせられることはないと思う。それは、彼女が「私の人生にはこんなにすごいことがあったの」「私はこんなにすごい人間なの」というスタンスで話をしていないからです。すずさんが生きたのはこの世界の「片隅」だけど、「彼女の世界」はいつも彼女の真ん中にありましたよね。

 そういう語りの仕方があり、そういう語り方ができる人がいる。
 それができる人がとても強く、そして救われている、っていうことも、すずさんの物語からちょっとはわかると思う。

 自分の物語を探し、語ることは、自分に酔うナルシシズムや、自分をことさらに自慢したり(不幸自慢含む)、卑下することとは、一線をひくことです。反対とも言えます。
 どこが違うかというと、ナルシシズムや自己自慢、自己卑下の語りは、その固定したイメージの中に自分を囲い込もうとするけど、自己発見の物語というのは、変化していくものなんです。

 そういう語り、自分を救いに導く語りが、周囲からの影響や、自分の持って生まれた才能によってできる人はいいですけど、そうでない人もたくさんいる。その原因は、「自分の物語を探し、語る」ということが、社会的に価値を置かれていないからだと思います。
 したがって、そのことが奨励もされないし、さらにしたがって、その技術研鑽を大真面目にやっている人って、超少ないんじゃないかと思います。
 自分の物語探しに先立つ仲間は、この世界では希少種、森の中の珍獣なのです。

 で、今、これを書いているわたくしは、自分がその希少種、珍獣だと思っているわけです。

「自分の物語」を探すことを、人生の最重要課題だと思って、いつも第一優先順位で、大真面目に取り組んできたのがわたくしなんです^^;;
 
「なまの果物と野菜をたくさん食べるとそのエネルギーが得られるよ」という本は、物語を探す技術研鑽のためのエネルギーが欲しくて、食生活も大真面目に追求していた(昔は体力がまるでなかった)過程で、予想外の果実として書かれたものでした。

 
 今となってはもう20年も前のことになってしまった1997年に、私は初めて「自助グループ」というものを経験しました。
 自助グループというのはアルコホリックをはじめたくさんの種類がありますが、そこに参加した私の印象は、そうだとはどこにも書いていないのですが、これこそ「自分の物語とその方法を学ぶ場所」だということでした。
 で、そこは学校ではないし競争する場でもないので物語が早く探せたりうまく探せる必要はないんですが、参加すると「どうしてあんなにことばにするのがうまいんですか」と言われることがしょっちゅうだったのは確かです。
 そして、なによりも楽しいことだったのです。
 「自分の物語を語ることで聞く人の物語も喚起したいという願望はその後もずっと消えることなく温められて、ようやっと2019年の今日、土からちょろっと頭を出した筍のような状態まで来たと言えます。

 で、自分の物語を語るコンテンツを作って、読んだ人にも自分の物語を探して語る技術を無理なく伸ばしてもらおう、というのが、このコンテンツの趣旨です。

続く。

面白かったら、下から
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参考にさせていただきます。