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2019年08月24日

「物語を語る力」のインストール(あなわた・その6)

《あなたが何より救われるのは、「あなた自身の物語」を見つけること。
そしてそのために私がお手伝いできるのは、「わたし自身の物語」を語ること》
略して、「あなわた」

(これまでの投稿)
その1 こちら
その2 こちら
その3 『サピエンスと物語と健康』 こちら
その4 『物語にのっとられて生命を落とした人々』 こちら 
その5 『「救われない物語」を求めてしまう人の心理』 こちら 


今回は、その6 『「物語を語る力」のインストール』

更新期間がまた2か月あいてしまいましたが、その間、「自分の物語作り」に忙しかったのです^^;;
とにかく続きを書きたいと思います。

まず、結論のおさらい、「自分の物語を発見し、語ることで、人は救われる」。

逆に、救われてない状態というのは、誰かに物語をのっとられちゃってること。

 では、救われてない状態から救われている状態に、つまり「誰かの物語にのっとられちゃってる状態」から「自分の物語を探し、発見につなげる状態」にまで軌道修正するにはどうしたらいいのか、というのが今回書こうとしているお話。

 まず、「自分の物語を探し、語ることのどこが難しいのか」というお話からです。

 今からちょうど一年ぐらい前のことですが(2018年の9月)、韓国の人気ヒップホップグループ、BTSが、国連総会でスピーチを行いました。それは、ユニセフの、若者たちに無限の可能性を感じてもらうキャンペーンの一環で、彼らは、若者たちの世界中の若者たちに向けて、「自分自身を語ろう」というメッセージをスピーチしました。
 ユニセフのこちらのページ https://www.unicef.or.jp/news/2018/0160.html からその記事とスピーチの動画が見られます。

 で、「かつて、他人が自分をどう思うかを気にするあまり、自分の声を失ってしまった」経験があるという、リーダーのRM(キム・ナムジュン)は、次のようなメッセージを語りました。
「あなたの名前は何? 何にワクワクし、何に心が踊りますか?」

 いいスピーチだけど、でも、この質問はちょっと難しいんじゃないか、と、これを聞いて、私は思った。

 なぜかというと、本当に自分がわからなくなってしまった人は、「何にワクワクするか」なんて、もう感じることができなくなってしまっているから。
 さらにいうと、自分の物語というのは「持っていいものだ、探していいものだ」という意識が欠落してしまっているから。
「自分を探したら、罰せられる」。そういう気持ちがインストールされてしまうと、自分ひとりの力でそこから抜け出すことはとても難しい。
 自分以外の「自分の物語」を探す人を攻撃するようになったりして、そうなると本人の「自分の物語を探す力」は干からびて、フリーズドライ状態になってしまう。
 自分の物語を探そうとする人たちに、安全な環境を提供できない社会へと向かってさえしまう。

 しかも、「自分の物語」というのは、その人本人にしか、それが何なのかわからないもの。

 物語は心の中にあるので、自分以外の人がその人の「自分の物語」がどういうものなのかを知ることができないのです。
 ということは、周囲の人が、「あなたの物語は、こうでしょ」と教えてあげることはできない、ということです。
 それから、誰かがが他の人の物語にのっとられちゃってる状態で、「これが私の物語なんです」と断言したら、「それは嘘です!」と言うこともできないということです。多少の指摘はできるかもしれないけど(他人にのっとられた物語というのはいくつか特徴があります)でも確証は得られないし、本人が「いいえ、あってます!」と断言したらそれ以上先に進まない。

 では、誰かが自分の物語を語り始められるようにするために、つまりそれは自分の人生を生き始めるためにどうしたらいいか、というと、
「私自身の物語を語り続けること」
 回り回ってこれなんです。

 これによる最初の大きな効果は、相手に、
 「自分の物語を語ってもいいのだ(罰されないのだ)」
 という肯定感を持ってもらうことです。

 自分の物語を語れなくなってしまっている人というのは、
「そうしていいのだ」という考えをどこかで破壊されてしまっているので。

 ところでこれを読んでいるあなたは、
「自分の物語を持っていいのだ」
 って、思ったこと、ありますか?

「ある」という人も「ない」という人も
「考えたことない」という人も
「自分の物語って何か、まだいまいちよくわからない」という人も
いると思いますが、
はっきりしていることは、
「自分の物語を探していいのだ」という気持ちを持っているかどうかは、
子どもの頃の刷り込みに影響されます。
子どもの頃、周囲(多くの場合、家族)が、自分の物語を探そうと努めていれば、自分にもその習慣が、自然と身につくことでしょう。子どもは、自分の仕草を身につけるのに周囲の人のやっていることを真似る以外に方法がないので。

 反対に、自分の物語を探すことを自分にも周囲にも禁じようとする人に囲まれていたら、その人自身もそうなってしまうでしょう。
 
 周囲の人からの影響によってその子どもの中に母語(母国語)、というコミニュケーションツールが刷り込まれていくように、周囲の人の影響によって自分を発見する「物語ツール」というものも刷り込まれていきます。母国語が、ツールであって影響を受けた人の考えや欲望をそのまま取り込むわけではないように、物語もツールであって自分の物語は自分で作ることになりますが。

自分の物語というのは、市場で販売されている物語や映画とは違うので、ことさらに大きな仕掛けやオチ、大事件があるというわけではないし、演出に合わせて大声や涙声で語られることもなく(自然に涙が出てしまう可能性はゼロではないですが)、淡々としていることもしばしばです。

「淡々としている」で思い出したけど、『この世界の片隅で』のすずさんの物語は、商業作品だけど、「わたしの物語」の原型に近い形で商業化されてるかも。(映画を見てない方は、ぜひご覧ください。私は原作は読んでないんですが)。
 すずさんの人生にはいくつか大事件はあったけど、それがなかったとしても、すずさんはすずさんと思わせる「軸」があった。私たちが探したいのは、「出来事」ではなく「軸」の方なのです。
 すずさんがどれだけ自分を語っても、聞き飽きたり、気分を悪くさせられることはないと思う。それは、彼女が「私の人生にはこんなにすごいことがあったの」「私はこんなにすごい人間なの」というスタンスで話をしていないからです。すずさんが生きたのはこの世界の「片隅」だけど、「彼女の世界」はいつも彼女の真ん中にありましたよね。

 そういう語りの仕方があり、そういう語り方ができる人がいる。
 それができる人がとても強く、そして救われている、っていうことも、すずさんの物語からちょっとはわかると思う。

 自分の物語を探し、語ることは、自分に酔うナルシシズムや、自分をことさらに自慢したり(不幸自慢含む)、卑下することとは、一線をひくことです。反対とも言えます。
 どこが違うかというと、ナルシシズムや自己自慢、自己卑下の語りは、その固定したイメージの中に自分を囲い込もうとするけど、自己発見の物語というのは、変化していくものなんです。

 そういう語り、自分を救いに導く語りが、周囲からの影響や、自分の持って生まれた才能によってできる人はいいですけど、そうでない人もたくさんいる。その原因は、「自分の物語を探し、語る」ということが、社会的に価値を置かれていないからだと思います。
 したがって、そのことが奨励もされないし、さらにしたがって、その技術研鑽を大真面目にやっている人って、超少ないんじゃないかと思います。
 自分の物語探しに先立つ仲間は、この世界では希少種、森の中の珍獣なのです。

 で、今、これを書いているわたくしは、自分がその希少種、珍獣だと思っているわけです。

「自分の物語」を探すことを、人生の最重要課題だと思って、いつも第一優先順位で、大真面目に取り組んできたのがわたくしなんです^^;;
 
「なまの果物と野菜をたくさん食べるとそのエネルギーが得られるよ」という本は、物語を探す技術研鑽のためのエネルギーが欲しくて、食生活も大真面目に追求していた(昔は体力がまるでなかった)過程で、予想外の果実として書かれたものでした。

 
 今となってはもう20年も前のことになってしまった1997年に、私は初めて「自助グループ」というものを経験しました。
 自助グループというのはアルコホリックをはじめたくさんの種類がありますが、そこに参加した私の印象は、そうだとはどこにも書いていないのですが、これこそ「自分の物語とその方法を学ぶ場所」だということでした。
 で、そこは学校ではないし競争する場でもないので物語が早く探せたりうまく探せる必要はないんですが、参加すると「どうしてあんなにことばにするのがうまいんですか」と言われることがしょっちゅうだったのは確かです。
 そして、なによりも楽しいことだったのです。
 「自分の物語を語ることで聞く人の物語も喚起したいという願望はその後もずっと消えることなく温められて、ようやっと2019年の今日、土からちょろっと頭を出した筍のような状態まで来たと言えます。

 で、自分の物語を語るコンテンツを作って、読んだ人にも自分の物語を探して語る技術を無理なく伸ばしてもらおう、というのが、このコンテンツの趣旨です。

続く。

面白かったら、下から
応援拍手や感想を送ってくださいね。
参考にさせていただきます。

2019年06月25日

「救われない物語」を求めてしまう人の心理

《あなたが何より救われるのは、「あなた自身の物語」を見つけること。
そしてそのために私がお手伝いできるのは、「わたし自身の物語」を語るこ》
略して、「あなわた」(最初「あなもの」にしてたけど、「わたし」を示すことができないので変えました)

(これまでの投稿)
その1 こちら
その2 こちら
その3 『サピエンスと物語と健康』 こちら
その4 『物語にのっとられて生命を落とした人々』 http://rawbeauty.seesaa.net/article/467302542.html

今回は5回目の投稿です。
『「救われない物語」を求めてしまう人の心理」』

人が「わたしの物語」を語ることができたときに、語った人も救われるし、その語りを受け止めた人も救われる、という仮説にもとづいてこの投稿をしています。
その中でしなくちゃいけないことが二つあります。
一つは、その仮説は果たして正しいのか? という問いに対する根拠を示すこと。
もう一つは、前回触れた内容、わたしも救われてあなたも救われてそんなにめでたい内容なのに、どうして読む人は別のものを求めるのか? について述べること。

今回は、その二つ両方について書きます。二つは重なっているので。

「わたしの物語」を語ることができると救われる、というのは、その作業とはつまり自己発見だからです。
 わたしは何でできているか、というと、細胞でできているかもしれないけど、実は物語でできているんですね(このあたり根拠を示すのが難しいですが、もう少し続けます)。
 しかし一方、わたしの物語を語る、自分を発見する、というのは、結構骨が折れる仕事です。慣れていない場合や、その引き換えに得られる救済感をまだ感じられていない場合には特に。
 人は、お金を払うとき、払ったことで「便利」を得たいものです。「便利=骨を折らないですむこと」が欲しいから購買活動するんですよね。お金を払って骨の折れることを買うのには、腰がひけるのもやむなし。
だから、良質の「わたしの物語」=「あなたの物語を発見できる触媒」ほど、骨が折れるから買いたくなくなる、ということになってしまいます。
 高い英語の教材買ったのに手がつかない、って経験したことありますか。あれは、お金を払って得られるのは「教材」であって、「勉強する手間の軽減」じゃないからなんですね。お金を払っても払わなくても、手間をかけて英語を自分の脳に染み込ませるのは自分の仕事。その手間が減らないから(むしろ増えるさらに言えば、しかも、手間をかけたから必ず身につくとさえかぎらない。。。 

 では逆に、「読むのがラク=自己発見を助けない、下手すると妨げる」物語ってあるのか?
 いっぱいあります。私は20年近く映画評論活動をして、世の中がそういうものがあふれかえっていることを知っています。
 そして、それらがしばしば、とっても面白いことも知っています。

 それらの特徴は何か、というと、「あなたが誰かを忘れさせる物語」なんです。
「あなたが誰かを発見させる物語」と、「あなたが誰かを忘れさせる物語」は、ある部分では似ています。どちらも、受け止める人に感情移入させます。それは、受け止める人と共通点があるから。おもにそれは「逆境に置かれている」ということです。
 ただ、大きく違うところがあります。それは、「あなたが誰かを忘れさせる物語」は、多くの場合、特別な力や、特別な運の良さを持っている。「あなたが誰かを忘れさせる誰か」は非凡な人。でも受け止める人は平凡な人。

 物語の中に入りこんで、あなたではない非凡な誰かに感情移入し、下手すると一体化することは、あなたが自分自身を探して四苦八苦するよりずっと楽チンに、しかもときにはそれ以上の気持ち良さを提供する。
 同じお金を払うなら、こっちの方がずっと払う価値がある。。だってラクだし確実だから。
 かくして購買活動はこちらに流れる。だから、買って欲しい人は買ってもらえるものを作る。

 物語のすべてが「わたしの物語」ではある必要はないかもしれないが、「誰かに求められるままに作られた物語」は危険です。語る方にとっても受け止める方にとっても。どうしてかというと、それはだんだん中毒化するから。「平凡な自分」への共感でなく、「非凡な自分」への同一化の方が膨れていくから。


 そして、「あなた(=読んだ人)が誰かを忘れさせる」物語の最たるものって、「権威と自分を同一化させる」物語なんじゃないかなあと思うのです。
 たとえば「国家」という権威に自分を同一化させる物語に快感を得てしまったとします。
 「自分が帰属している国家はすごくて」
 「その国家に帰属している自分はすごくて」
 「国家に裏打ちされた権威をもつ自分は、国家に帰属しない人間を受け入れられなくなる=どうにも邪魔になる」
 わたしはこんな推測をしています。

 「自分が誰かを忘れさせる物語」を求める人にとって、そのような物語は実は「救済」に感じられていると思うんですね。救われるどころか、破壊されてるんだけど。
 だからその考えを手放すのはとても大変、というかほぼ不可能。「変えよう」と思うのはその物語を持っていることがよほど自分を破滅に導いているとわかたときなんだけど、実はそういうときってなかなか来ないんですよね。そうならないようにすでにいろいろブロックを作っているから。
 たとえそのような考えが持てない(禁止されるとか)しても、その考えを捨てるのではなくて冷凍保存して、来たるべきときが来たら息をふきかえすような感じ。

 で、「あなたが誰かを忘れさせる物語」に耽溺する人がいたら、その人と付き合わなければいいのですが、そういうわけにはいかないようにでてきるんですこれが。。。
 理由は、「あなたが誰かを忘れさせる物語」をこころの食べ物とする人は、上にも書いたように、自分の価値観に合わない人を許せなくなっていくからです。誰だってそう? いや実は、「あなたが誰かを忘れさせる物語」を欲する人は、筋の通った「価値観」があるわけじゃないくて、自分の気まぐれや衝動を自分が取り込まれた権威に引っ掛けて叶えようとしているので、そうじゃない人の自由や安全が侵食されていくんですね。
 それなのに、その人たちを説得したり罰したりして変えることはできない。
 人が「救済」を求めるのは、多かれ少なかれ人がこの状況や心境に達したときではないかと思います。
 自分の自由や安全が侵食されていくのに、その、安全や自由を侵食するものを止めることができない。
 わーホラー。。。

 その中で、自分の安全や自由を再び確保できるためにできることがあるのか。
 イコール、自分が救済されるのにできることがあるのか。

 答えはすでに言ってしまってあるけど、次回に続きます。

面白かったら、下から
応援拍手や感想を送ってくださいね。
参考にさせていただきます。

2019年06月20日

物語にのっとられて生命を落とした人々(あなわた4)

あなたが何より救われるのは、「あなた自身の物語」を見つけること。
そしてそのために私がお手伝いできるのは、「わたし自身の物語」を語ること
シリーズ。今回は4回目

その1 こちら
その2 こちら
その3 サピエンスと物語と健康 こちら

今回はその4。
予告通り 『物語にのっとられて生命を落とした人々』

私が初めて物語に興味を持ったのは、そして影響を受けすぎて「自分も物語を書く人になりたい」と思うことになった作品は、ルイザ・メイ・オルコットの『若草物語』(原題 little women 1868年)です。
世界的ベストセラーで、日本では『アルプスの少女ハイジ』と同じ枠で連続アニメになったのでご存知の方がたくさんいらっしゃると思いますが、この作品は、明治維新と同じ年に書かれたこの作品は、作者オルコットの自伝的作品と言われています。言われています、っていうか、ほぼ断定です。
little women =girl ではなく「小さな大人の女性」というタイトルは、当時は先端の思想であったフェミニズムを学んだオルコットが登場人物たちを欠点もあれば自分の意思も野望もあるひとりの人間として描こうとしたという意図が現れています。日本ではこの「小さなおとな」を「若草」と表現してこのタイトルがつけられたのでしょう。
しかも、繰り返しますが、この小説は自伝的小説なんです。
今ざっくり調べたのですが、物語作者が自分の人生を投影する手法って、近代の手法なんです。絵の題材がギリシャ神話とお金持ちの肖像画だけだったように、昔はストーリーというのは神様の話かえらい人の話しか書いちゃいけないわけで、自分のことなんか書いちゃいけないですからね。ヨーロッパでそのはしりとなるのが18世紀末〜19世紀初頭のゲーテぐらいから。日本では明治にはいって一気に「私小説」という分野が燃え上がりますが。
だから、19世紀後半に書かれたオルコットの『若草物語』は、史上初めて女性の手によって書かれた自伝的小説の一つ、と言えるかもしれません。(あとで書きますが、この頃書かれた有名な自伝的要素が盛り込まれた小説がもう一つあります)。
というわけで、『若草物語』、というのは、世界初の、女性の手によって書かれた、しかも、登場人物をひとりのリアルな人間として描いた「わたしの物語」なんですね。

その作品に、日本の五歳の女の子が魅了され、いつか自分も同じことをしたいと志してから、もう半世紀たったのでした。。。

さて、自伝的小説を書いたオルコットですが、では本人は実際にどんな人生を過ごしたのかというと、まず、55歳でなくなっています。
アメリカの1900年の平均寿命が実は47歳ぐらいだそうなので、55歳ってそんなに短命ではないのですが(21世紀を生きると忘れそうになりますが、サピエンス、「人生50年」のハードルを超えてかららまだ50年ぐらいしかたっていません)ただ、サピエンスの平均寿命を下げているのは乳幼児の死亡率なので、大人になるまで生き延びた人の中では、格別長生きとも言えません。彼女の死因は南北戦争時代に従軍看護婦として働いた時患者の腸チフスの治療薬として使っていた水銀の中毒によるものでした。これも、当時としては仕方ないかもしれませんが、天寿を全うしたという感じもしません。健康状態が悪化してからも作品を書き続け、道半ばで倒れるように亡くなりました。
それから、彼女の人生は、経済的に困窮していました。
『若草物語』の出だしのたった2行目、長女のメッグ(マーガレット)のセリフが「貧乏っていやねえ!("It's so dreadful to be poor!")」です。のちに父親の闘病費としてジョーがかつらのための髪の毛を売ってお金を作ったり、「貧乏」は、すごくすごく大きな、『若草物語』のテーマです。
オルコットの両親は、超越主義といって、当時のアメリカの最先端の思想の持ち主で、その学校を経営していたのですが、この経営がうまくいかず、彼女は家計を支える必要がありました。彼女にとって物語を書くことは好きなことでもあったでしょうが(それは『若草物語』を読めばわかります)、同時に、大事な生活手段でもありました。
そして、『若草物語』の中で本人がモデルであると思われるジョーは結婚しますが、オルコット本人は生涯独身でした。

なんだかあまり幸せそうじゃないなあ、と、これらのことを知った私は思ったものです。
とくに、両親の人生の理想が高すぎて生活が困窮していて、それの穴埋めをするために小説を書いた、というのが、重く感じられました。
雇い主とか国から搾取されたような明らかに他人が悪い貧乏わけじゃなくて、自分で自分の首を締めるような貧乏生活だったんですね。

『若草物語』はオルコットの「わたしの物語」であり、それを書いたことで彼女にとって癒しはあったんじゃないかと思うんですけど、同時に、ストーリーとしての『若草物語』は、できすぎている、というか、読者のウケが優先というか、「おもしろすぎる」と感じる部分があります。
 これは、生活のために作品を書いていたオルコットが、それだけ読者を面白がらせることにガチだった、ときには「わたしの物語」を語ることより、「他人が面白がる物語」を語ることを優先させてしまったんじゃないか、と感じさせられたんです。

 私は、オールコットの『若草物語』以外には『八人のいとこ(Eight Cousins )』や『美しいポリー(An Old-Fashioned Girl,1870年)を読みましたが、これらが、『若草物語』に比べて、ぜ〜〜〜〜〜〜んぜん面白くないことも気になりました。
 どこが面白くないって、それらの作品は教条的すぎたのです。「両親が選んでくれたし、私たちの年齢でぜいたくな服は必要ないと思うの」と言い切って質素な服装をしているポリーとか。『若草物語』のような人間くささがそこにはありませんでした。

 この投稿をするためにオルコットの人生を調べたら、彼女は、別のペンネームで、さらに人間くさい欲望に満ちた主人公たちが登場する小説も書いていたんだそうですね。教条的から人間の欲望かあ。。。「わたもの」だけでは納得できないエネルギーが彼女にはあったのかなあ。。。

 19〜20世紀にかけて、商業的な作家(および他の芸術家)が出てくると、彼らは「わたしの物語」を語ることで読者や観客の共感を得、同時に自分が癒される面もあったでしょう。しかし、それを生業として続けていったときに、いつのまにか、「わたしの物語のように見えてそうでない物語」が「わたしの物語」をのっとってしまい、本人も知らず知らず知らずのうちに、「わたしの物語」でない物語を語ってしまい、それはときには少しずつ、ときには劇的に自己喪失の原因となって、ついには命を縮めることがあるんじゃないか。私はそんなことを感じるようになったのです。

 一つも商業的作品を仕上げる前から、いや仕上げる前だからこそ、私はそれを恐れて先に進むことができなくなりました。
 どうしてかというと、一度「わたしのものではない物語」を書いてしまったら、もう軌道修正することはできないように感じたからです。一つずれたら、どんどんずれていきそう。

 「わたしの物語」を語ったつもりが、実は「わたしのものではない物語」を語ってしまって寿命まで縮めてしまったんじゃないか、と思う女性があとふたりいます。ひとりは、オルコットと同じ頃カナダで『赤毛のアン』シリーズを書いた、ルーシー・モード・モンゴメリ。彼女の死因は薬物の過剰摂取だったと子孫が明らかにしています(否定している学者もいます)。もう一人は、日本のある漫画家です。

 なお、ここまで女性の作家ばかりをあげてきましたが、男性が「自分の物語」を語ったつもりで実は「自分のものではない物語」を語ってしまうと、抑圧が自分でなく周囲の他者に向かうんじゃないかと思うことがあります。

 上に書いたことは、作品を読んだ私の感覚的なものなので、また、幸福の体感というのは本人にしかわからないことなので、あっているかどうかは、証明しようもありません。

 しかし、私が感じたことは、それは自分のやりたいことではないなあ、ということ。
 そして、私がやりたいことは何だろう、と思って出てきたのがこのシリーズのタイトルで、私は、自分の救済になるためにしたいこと、する必要があることは、「わたしの物語」からそれないことだ、と思うようになったのでした。

 次回は、想像つくかと思いますが、「わたしの物語」を、その軸からぶれないように、どうやって語っていくか、ということです。
 あ、その前にもう一つあります。それは、どうして、読む人は、「わたしの物語」ではなく、「わたしの物語に見えてそうでない物語」を求めてしまうのか、ということ。これも書いておかないと、「お互いに救われたいんだったら、わたしの物語だけ書いていればいいのに」って思いますよね。

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