「ローフード」のことを「リビング・フード」といったりもして、「リビング」というのはすでに「生きている」という意味が日本語に組み込まれているからとてもわかりやすい。「ロー」というのは、日本語だと「低いlow」なんだか「法律law」なんだか「生raw」なんだかわかりずらい。
でも、「ラヴ」を語るときには、「raw」というのはなかなか素敵な語だと思うのです。raw というのは「生」という語に訳されますが、もっと包括的にいえば「未加工の」という意味だからです。未加工の愛。
昔から、とにかく男性を愛することが苦手で苦手で。
愛することも苦手なら、愛されることも苦手。
昔、友人の二次会の会場で、声をかけてきた男性が、「私のうしろにいる女性」に声をかけたのだと思って後ろを向いてしまい、一緒にいた友人に「あまりに痛々しい」と泣かれたことがあるぐらいです。
とりあえず、「普通に1人の男性を愛して、一人の男性と結婚して、一人の男性とのあいだに子をもうけて一つの場所に暮らす」愛のスタイルに対する敵意(?)みたいなものがあって、かといって、敵意で生きてる女は、奔放に生きても愛仕方知らないからやっぱり傷つくんですね(こういう女はそもそももてません)。かといって、子供生みたい欲求も起きないし、女としてちゃんと生きられない自分に劣等感があってその劣等感がまた自分を傷つけるし、もうめちゃめちゃでした。
しかし、ローフードを食べ始めて少しずつ思うようになったのは、私が抵抗を感じていたのは、「愛」ではなく「加工された愛」しか愛しかたはないのか? という閉塞感でした。
人の心はみな違います。でも、同じ工場で作られた同じものを食べていたら、みんな同じ心になってしまわないのかな?
そこで「個性」を保ち続けることは、加工された食べものを消化するのと同じように、みんなが当たり前のように感じているけど大変なことじゃないのかな?
そういう疑問はあります。
ローフードを食べたら、「自分の愛の形」を、それぞれに、もっと堂々と心のエネルギーでもって行うことができるんじゃないかしら?
そんなふうに思いました。
1960年代、、アメリカでは、「同じ形にそろった郊外の家」は、理想郷とさえいわれていました。郊外=サバーバンと、理想郷=ユートピアを合わせて、サバービアという言葉があるぐらいです。
でも、サバーピアの没個性社会で個性がいかに排斥されるかを描いた映画には、ティム・バートン監督の傑作『シザーハンズ(あのお菓子の家みたいな同じ形の家を覚えていますか?)』そこで壊れていく家族を描いた映画には、1月に公開されたばかりでレオナルド・ディカプリオとケイト・ウィンスレットが主演した『レボリューショナリー・ロード』、その崩壊を描いたドキュメンタリーにその名もずばり『ジ・エンド・オブ・サバービア』があります。
ローフード(未加工の食べもの)を食べたことは、私に、自分のロー・ラヴを認めさせる機会にもなったと思うのです。
先週末、2年間疎遠になっていたX君とスキーを楽しんで、帰りの新幹線に乗った時に、彼に「今、つきあっている人はいるの?」と聞かれました。
男性にそういうこと訊かれたら、「ふふふ」と笑って答えないのが「愛を持続する」つまり、愛の加工法なのだそうです。でも、そのとき私は、初めて異性に向かって、自分のラヴ・スタイルとでも呼ぶべきものについて話しました。
2年前、たしかにX君のことをすごく素敵だと思ったけど、私は当時レプティリアンにどうしようもなく惚れてしまっていたため、X君を「とうざしのぎ」の相手にするのは申し訳なくて、誘いにのりきれなかった、ということ。
X君とメールしているときはとても楽しかったのだけど、すごく好感をもってから写真を見てしまって、「太っている」のがどうしてもタイプでなくて、でも、「太っているのが嫌い」と申し訳なくてどうしてもいえなかったこと。
今は、レプティリアンじゃなくて、縁があって定期的にデートしている男性がいること。でも、レプにも愛されたいし、X君といっしょにいたらすごく楽しく感じるということ。
X君は全部聞いて、最後に、「太っているから嫌いっていってくれたらよかったのに。そしたら、僕、この2年間で努力してやせたかもよ」といいました。(彼はこの数年で15キロ太っちゃったんだそうです)。
それから、「今でもレプのことが好きなの?」と聞きました。
私はよく考えて、「うん、今でもレプに愛されたい。でも、レプが『1対1で付き合おう』といってきても、今の自分の生活を愛しているからそれは断ると思う」
といいました。
Dan へのメールにも書いたんだけど、霊的成長とは、「世界の(自分の)複雑さを受け入れること」だと私は思います。たとえば酵素というのは、3000種類もあるけど、どれもたったひとつの働きしかしません。それが複雑に絡み合って、世界の生命活動を支えています。プロセスフードの分子構造は単純ですが(たとえばショ糖とか)、ローフードの構造はとても入り組んでいます。
今だったら別に結婚するのも悪くないなと思うのだけど、そう思ったらかえって今の愛の形に流されてきてしまった。それは自分がコントロールしたものではなく、ふと気が付いたらこういう形になっていた。
ところで、「また一緒に遊ぼうね」と話し合って、一緒に見る映画まで決めていたのに、数日前から、突然X君からメールが来なくなりました。X君はすごい筆まめで、何があっても必ず1日でメールが来たのに、初めての経験でした。
(結局連絡違い、って後からわかったのですが)
ロー・ラヴは防腐加工できない。
ロー・ラブは、いつ消えてしまうかわからない、あるいはいつ死んでしまうかわからないリスクをいつも抱えている。
↓
そう思って加工するのをやめてほっておくと、意外や意外、永遠に生き続けたりする。
ブログ村のランキングが71日連続で100台に入りました^^ 「ローフード」カテゴリ、発酵したようについに50まで増えましたね! このままどんどんローカテゴリーが発展するといいですね。訪問者の皆様、読み終わったらぜひクリックしてくださいね。
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2009年03月27日
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(2022/12/16更新)
私は「のろけ」って密の味に感じます。恋愛相手の男性と居る時そのものよりも女友達にのろけている時の方が快感が強いかもしれないくらいです。・・・となると自分にとって幸せの価値観がわからなくなってきます。
幸せを偏差値換算してしまおうとするロー歴4ヶ月弱な私です・・・。
石ともさんのおっしゃってること、わかります。
ローになる以前から、私もそうでした。
自分のローラブに気づかない人がどれだけいるか・・・
実行する、しないは別としても、自分のローラブにみんなが気づいたら、何かはもっとスムーズに流れますよね。
「人間は多面的な生き物なのよ」
杉本彩さんの大好きな言葉です。
ローはまさにそこに気づかせてくれる。
人は変わるので、自分でも気づかなかった自分がいたり、恋愛感があっていいと思います。
むしろ、その方が自然なんじゃないかな。とすら。
女ですもの。
愛したいし、愛されたい。
自分であることの人生を楽しみたい。
どうかローラブのカテゴリー、消さないでください。
自分のメールが届かなかったみたいと書いてありました。
で、私から返事がないから、他の人と見ちゃったんだって。
そゆ人って、すごく楽なの〜
あとでこの投稿、ちょっと書きなおそうっと。
私の姑もレプなんですよ。フフ。。。
今回の記事を読んで、周りの評価や枠に自分を無理に合わせるのではなく、
自分に正直で幸せでいられれば、それが「ローラブ」なんだと石ともさんはおっしゃっているのかなと思いました。
その結果が、周りからは一夫一婦制に見えようが、奔放に見えようが、本人が真に自由であればみんな根本は同じなんじゃないかな。。。と。
異性愛だけでなく、全てにおいて大事な事を思い出させてくれてありがとうございます^^
はじめてコメントさせていただきます。
ナチュラルハイジーン歴2年目。ローフード歴半年(70〜80%)のううりと申します。
私はいま、
「1人の男性を愛して、一人の男性と結婚して、一人の男性とのあいだに子をもうけて一つの場所に暮らす」
という価値観のなかにいます。結婚3年目で1歳の子供がおり、昨年末にマイホームも購入しました。
しかも、まさにおっしゃるとおり、都内の「同じ形の家」つまりマンションです。
今回の石ともさんの記事、ローフードも石ともさんも大好きで、
石ともさんの著書に感銘を受けてローフードを実践し始めた私には、
ちょっぴり悲しくなってしまいました。
私のような形の家族はたくさんいるでしょう。
外側の形だけを見れば、たしかにみんな同じでしょう。
女性は女性の形、男性は男性の形、家族は家族の形です。単なるカテゴライズですよね。
だけど、それぞれの夫婦や家族が、
「まるで工場で作られたように同じ愛し方」をしていると本気でお思いなのですか?
生意気を言いますが、愛の形や価値観がみな同一だと少しでもお思いなら、あまりにも悲しすぎます。
もちろん、人の考え方はそれぞれですから、石ともさんが本気でそう思われていても、それは自由だと思います。
それを、ブログ閲覧者に影響力のある石ともさんが、「密かに」ではなく、記事として載せなければ……ですが。
そもそも、自分の夫や子供への愛が、他人の価値観と同じかどうかなんて、考えたこともありませんでした。
考えるまでもなく、同じなわけはありません。
家族は、きちんと個性のある個人で構成されています。
個性のある個人同士が、愛情という絆で結びついているのです。
同じ人参でも、いろいろな形、いろいろな色、いろいろな大きさがありますよね。
「1人の男性を愛して、一人の男性と結婚して、一人の男性とのあいだに子をもうけて一つの場所に暮らす」
ことを否定的にとらえていらっしゃる石ともさんは、
まるで人参ならなんでも一緒、とおっしゃっているように感じます。
慣行栽培された、形のそろった人参もたしかにありますが、
自然栽培された、甘くておいしい個性豊かな人参とその価値も、
ローフーディスとの石ともさんならご存知のはずです。
人参が嫌いな人でも、自然栽培された甘くておいしい人参なら、食べられるんじゃないでしょうか?
「1人の男性を愛して、一人の男性と結婚して、一人の男性とのあいだに子をもうけて一つの場所に暮らす」
ことを、ぜひ怖がらないでください。
私はこの価値観の中で最高に幸せだし、
そう思っている家族をたくさん知っています。
もちろん、独身を貫くことを否定するつもりはありません。
それはそれで、本人が幸せであれば、もちろんとても素敵なことだと思います。
生意気を連ねましたが、石ともさんのことはこれからも応援させていただきたいし、
ローフードもつづけます。
読んでいただいて、ありがとうございました。
いつもローフードの記事は楽しみに拝見させて頂いています。
ただ、今回の記事に少し思ったのでコメントさせて頂きます。
ローラブ、未加工の愛と言葉を飾れば特別で、まるで素晴らしいもののように美化して聞こえますが
今は独身で年をとる方も多く、その中には複数の方と自由に遊んでいる方も大勢いらっしゃると思います。
ただ公言しないだけで。
石ともさんの価値観、愛の形がそのような形であること。
周りにいるそうでない人たちからの影響から逃れ、それを認めることができるようになったこと。
それは大切で素晴らしいことだと思いますが
それを認めるために、違う価値観である「一人を愛し結婚し子供を作る」人たち、当たり前に一人一人違う形で、全く違う人生を送る人たちをひとくくりで「工場で大量生産された加工品」と貶める。
自分の愛の形をもっと上のステージのものであるように表現するのはちょっと違うかなと感じます。
まさしく価値観の違いなだけで、農薬野菜と有機野菜を比べるのとは違い、そこには上下も良い悪いもないはずです。(農薬野菜にも効率、値段等の良さはありますが)
ローフードやオーガニックな生活をしている者の認識では
「工場で大量生産された加工品みたいだ」という表現は悪意のある言葉になってしまいます。
私は結婚もしていませんし、子供もおりません。
その面でどちらかというと石ともさんと同じ側の立場だと思いますので、よけいに気になってしまいました。
石ともさんの正直な面はブログからも伝わりますし、悪気があって出た言葉ではないとは思います。
誤解があっては残念ですし、つい書かせて頂きました。
長々と失礼しました。
これからも応援しています。
>名無しさん、
>しおさん、
>他みなさんへ、
最近の私はなんだか怒り爆発ですよね〜
今年の春は怒りデトックスです。
まずその「怒り」について思うことを書きますね。
ローフードを食べ始めてから今までの3年間は、
面白いように、毒が抜けていき、楽しいこと、心がラクになることばかりありました。
でも、ある程度抜けたときに、
まだ自分で「こだわっている」(その毒を持っている方に執着している)ことを
自分の心の中に発見して、
「ふりだしに戻る」って
感じで、いやなやつに戻って(?)
またそこから自分の毒を発見して、それを認めて流していく(気付かなくても流れていく)
っていう繰り返しに
なるんじゃないかと思いました。
たくさんの方がローフードのブログを始めて
キラキラした感動を書かれていて、
よっぽどそっちのほうが「ローフードをやりたくなる内容だよなー」
って最近実は落ち込んでたりしたんですが(正直)
私にできることがあるとしたら、
この姿を「いつもローだとキラキラなのよ!」って
強引にまとめてしまわないことだろうと思っています。
ローでも毒吐き全開になる、っていう
姿を見て、もしかしたら「私だけじゃない」って
思って助けられる人もいるかもしれません。
問題は、私がこの後どうなるか、だと
思います。
たくさんの人が正直な意見を、でも攻撃的でなく
伝えてくれて、ありがたいなと思います。
家族の形、愛の形は別コメントにします。
実はこの投稿を最初にアップしたときは、
「ローフードを続けると同時に、
自分の愛の形も認められると同時に、
他人(私とはもっとも縁が遠い、いわゆる一夫一婦スタイルの人)の愛の形も認められるように
なってきた」
という文章が入っていたんですよ。
(アップして10分以内に読んだ人は、見られたと思います。)
ロー・セレブのなかにはブーテンコ・ファミリーやストーム&ジンジーのカップルがいますし、ローフードをやってからたくさんの素敵なローカップル、ローベビーを育てているご両親も見ました。
その文章を入れてアップしてみたんですが、文章あまりに長くてまとまらがなくてはずしたんです。
「自分の愛の形を認めたら、人の形も認められるようになった」と思っているのは本当なんですよ。
自分を肯定すれば相手のことも否定する必要がなくなりますから、そんなに自分に負荷がかかることはしませんもの。
ただ、そのうえで、「一律の家に住み、一律に供給された食べものを食べる」ことに対してはこんなふうに考えています。
たとえば皆さん、加熱加工された食べものを食べていた時は、「それがふつう」と思っていらして、ローを食べて初めて「こんなに軽いのか!」って感じたわけですよね。
それと同じように、「心の中が人それぞれ」であったとしたら(当然そうなわけですが)、外側(家の形、食べるものの種類)も大量生産でなければ、もっと、負担なく、やりやすくなるのではないかしら?
とは思います。
つまり、「何人もの人が好き」な人はますますそれが負担なく、「一人の人が好き」な人もますますそれが負担なく、できるような気がします。
今はやっぱり、どっちも統制されちゃっている気がします。
なんだかすごい大事な話になってきた。
たぶん、その「統制」に対して私はめちゃめちゃ怒っているのだと思う。
ロー暦まだ5ヶ月ですが、統制に対しての怒りは
わたしもずっと感じています。
私には主人も子供もいますが日々のくらしのなかで
常にその統制に対峙しています。例えば学校とか。
夫を主人と呼ぶとか。予防接種とか。
ローフードによってこの封印がとかれる日がくるのではないかと。・・・ひそかに期待しているのですが。石ともさんのブログ、とても励みになっています。
雑誌、新聞、テレビなど、人を煽動するように動いていると思うのですが、それを見た人々が、その情報に影響されてそのまま動く、という方が多いと思います。
何年もテレビ、新聞などほとんど見ない生活をしています。たまにテレビなど見ますと、 ニュースの報道であっても、アナウンサーの妙な感情的な話し方に首をかしげます。また、ネットなどでいろんな情報を知っていくたびに、表のメディアはほとんど偏向報道だなあ、と感じます。
もしかしたら、その目にみえない強制をどこかに感じて怒りを感じているのかもです。
人は、なにかに流された生き方から、自分の足で歩いていく必要性があるのかもと思います。
違っていたらすみません。。。
でも、世の中には、何かにつけ「これが『普通』」という人は、多いですね。特に日本は。私も少数派なので、しょっちゅううんざりしてました(^^;。(まぁ、私もまだ『普通』が外れていない所は、たくさんあると思いますが。)
私自身は、「一生一人の人と一緒に居たいなぁ」と願っています。
再度、石ともさんのお書きになった物を読んでみたら、「加工された愛」というのは、石ともさんの中のイメージであって、「一夫一婦制が好きな人が、みんなそう」とは、書いてないんですよね。
なんとなーく、石ともさんの記事を読んでいて思ったのは。「管理しやすい、コントロールしやすい民衆」というイメージでした。
で、石ともさんは、敢えてこういう極端で端的なイメージを示して、そういうことを言いたいのかな、と思いました。自分の気持ちや意志でなく、「誰か(世間、政府、社会)」が決めたルールに、素直に、疑いもせずに従う人々。「だって、ふつう、そうじゃない?」。
価値観は色々ですし、一夫一婦制も悪くないと思います。石ともさんも、別に一夫一婦制を否定しているのでなく。
こういう挑発的とも刺激的ともとれる記事を書くことで、「もっと多様でいいんじゃない?」「それはあなたが本当に望んでいること?」という投げかけをしたのだろう、と思いました。
それが、「ローラブ」ということですよね?表れる形ではなく。
「統制」という言葉からして、あながちはずれじゃないと思うのですが。どうでしょう?
ちなみに、複数のパートナーを持つ、というのは、1人のパートナーよりも、遙かに誠実さなど、人間関係を気付くスキルや在り方が要求されて、すごく大変なことだ、と思います。全員と、絶対の信頼関係がないと、できない。私には到底出来そうもありません^^:
違っていたら、失礼致しました。m(__)m
あれは私が心から感じた石ともさんのイメージでした。
その愛が石ともさんの心を豊かにし、輝かせていたのかもしれませんね!
男女の愛だけでなく、どのようなかたちでも自分以外の誰かを愛するという気持ちは心を豊かにしますね。
マザーテレサが多くの子供たちのお母さんであったよに、一度に多くの愛を与える人生も素晴らしいと思うし、1人の子供に愛を与え、その子が愛ある子に育つこともまた素敵だと思います。
与えられた愛によって自分の愛情も育ち、人に与えられるようになるって素晴らしい愛の循環だと思います。
例えば愛に乏しい環境で育ったとしても、誰かを愛することが出来る自分になれたら、それは小さな愛からはぐくまれた賜物ですよね!
色々な愛があって、例えばそれが他人に理解されないものであっても、その愛が自分の心を豊かにするものなのであればそれは本当に素敵な愛なのだと思います。
愛って純粋であればあるほど、見返りを求めなくてもうまく循環していくものなんだなぁって感じます。
愛について考える機会を与えてくれた今回の記事!石ともさんに感謝です♪ありがとうございました。
私もいわゆる‘ふつう’というカテゴリーの中に納まっている人間ですが、枠にこだわった訳じゃなくそれが一番自分にはあっているからなんですよね。
なので多様な物事のあり方には対応できます。
子育ての時に「男の子は男の子らしく」とか女の子もしかりの育て方って絶対に嫌だと思っていたけど、産んで育ててみたら、男の子は男の子のように、女の子は女の子のように体も考え方も感情も行動もそうなっているのが驚きでしたね。
人間の巣作りも、多くの人がそうしているのってそれはそれで本能なのかもしれないなって思います。
もちろんその中に入らない人もいる訳で、だからこそ世の中面白いし、多様で複雑なお互いの存在があるから息がつけるのだと思います。お互い様です。
私にとってのローは、既成概念をはずす・・・ですかね。ブロッコリーは茹でてよじゃなくて、生で食べてもいいんだ!意外においしい!しかもヘルシー!みたいな。
でも私は栗原はるみさんのレシピにでてくるような食卓も、とってもおいしそうだしヘルシーだって思うんですよね。
普通の枠の中に入りきらない人たちの日本の社会においての生きづらさ・・・私もよく分かります。
多様性を受け入れるそういう社会を目指したいですね。
石ともさんの文には「普通に1人の男性を愛して...」という価値観からはみ出している自分を感じていたと書かれているだけで、その価値観の中にいる人たちを否定しているとは読めないんですけれど。
私も、うさぎもちさんの見方と近く、「普通」という「大勢」が「体制」となり、自由を圧迫することに対する抵抗を、愛に集約して語ったと思うのです。だから「統制」という単語が出るのだと。
ううりさんが人参のたとえを出されたので、一頃の農業者、ことに有機無農薬や自然農法を目指す人たちに置き換えて皆さんも一緒に考えてみてはいかがかと提案します。
20年近く前にこれを模索した時、自治体の行政や一部農協や既存の慣行農法の農家からの風当たりはとても大きかったです。
何の後ろ盾もないまま、今は亡きある人のもとで学んだのですが、そこの野菜を超える味のものにはその後、出会えません。殆ど全量、難病患者の会に出荷されていました。
逆にその頃愛飲していた無農薬栽培農家のお茶からチェルノブイリの影響で、極微量の汚染が検出され、生産者との交流で、承知の上で、買い支えようという声に応じて購入したこともあります。
ローフードの必須アイテムの、「身体に取入れるに相応しい野菜」の生産現場の環境が今どのくらい良くなったか、座礁して就農「素浪人」のままの私は把握していませんが、資材の高騰した昨年などは打撃だったのではと身につまされました。
近頃の新規就農者の頑張りはよく見聞きしますし、農業全体がもっと勢いを持つ為に世の中はもっと成熟する必要がある、と考える私は、様々な角度から常に一石を投じようとする怒りのローフード・エヴァンジェリストの記事を、楽しみにしています。
読者の心を逆撫でしないためだけなら、耳なじみのよいことだけ書けばいいところを、『「いつもローだとキラキラなのよ!」って強引にまとめてしまわないことだろうと思っています』と仰る気持ち、私には伝わって来た気がしますよ。
反対意見の人も臆せず排毒して、更にその向こうの本質に迫りましょう。
私は元気です。
>蒸し返すようですが、「統制」について
結局のところ、
「普通に1人の男性を愛して、一人の男性と結婚して、一人の男性とのあいだに子をもうけて一つの場所に暮らす」
ことにも、
「複数の男性を愛して、複数の男性とのあいだに子どもをもうけて、暮らし方を変えながら暮らす」
ことに対しても、またそれ以外の愛しかたにしても、
人間の潜在能力は100パーセント発揮されていないように感じています。
ローフードになってから、「え! 私にこんな力があったんだ」って思うこと、たくさんあるわけですね。
それを統制しているもの=防腐加工は、決して悪意ではないと思うのです。
「それで痛い目にあったら、あなたが傷つくでしょ」という思いやりは、
「この食べもので食中毒起こすと大変だから、煮ておいてあげましょう」
という思いやりに似ているかも。
でも、自分に力がついてきたら、その防腐加工はとりはずすときがくるんじゃないかという気がします。
ちなみに私、いろいろな男性への愛を認めるようになったら、逆に「結婚して子供を生むのもいーなー」と思うようにはなりました。
ね? どっちか何いいたいかわからないでしょ(笑)。
このブログの読者は、真摯で、批判もするけど攻撃的ではなくて、語れば語るほど「自分であること」の姿が見えて、すばらしいですね。
ありがとうございます。皆さん大好きです。
≪誰が呼んだか「食べる『ホ・オポノポノ』」(私だ) ≫
なるほどデス。。。
このブログ、私の投稿だけは直せるんですが、
みなさんが自分の投稿を修正したり削除したり
できない仕組みになってます。
自分だけなおしちゃってごめんなさい。
こんな感じで、前より伝わるようになるといいのですが。
私もいろいろと学ばせていただきました。
これからも楽しみにしています。
私がいつも思っていることに
「人はそれほどバカじゃない」っていうのが
あるのですが、
私もこのたびの皆さんの「自分を語ること」の
レベルの高さに、
正直舌を巻く思いです。
もっと最初から適切な表現ができればよかったという
思いはありますが、
「言葉」も食べものと同じぐらい自分を作る
大切な要素です。
皆様のことをとても誇りに思います。
春の怒りの排毒中の管理人より愛をこめて
らぶらぶなんですね。おめでとうございます^^
ずっと、「もう1人の人って、誰なんだろう?」と思っていたのですが、そっかー、実は最初から両思いだったんですねー(にっこり)。
書き直された文章と、新しい方から2番目のコメントを読んで、石ともさんの自由さを感じました。なんだか、嬉しくなりました。^^
「統制」は、外からきたものも、自分で加えてしまった制約も、両方ありますね。そういったものをどんどん取っていきたいです。
とっていったら、…どうなるのでしょうねぇ?すごいことになるんでしょうね☆
石ともさんの文章表現がなんだかとっても文学的というか深くて、自分なりに噛み砕いて理解できるまで何度も何度も読み返させてもらいました。
私は昔から自分に対して自信がなく、自分で自分を「よし」と思えない状態が長く続いていました。自分で自分を愛せてないのですから、人のことなどは尚のこと愛せるはずがありません。もちろん男女問わずです。
子供の頃に読んだ「ドラえもん」の中に、「石ころ帽子」という道具がありました。その帽子をかぶると、姿かたちは見えているんだけど、まるで石ころになったかのように自分の存在が相手に認識されなくなるというものでした。
私は、こんな自分のようなつまらない人間のことを認識してくれている人などいないだろうと、勝手に石ころ帽子をかぶってしまっており、誰か(特に男性)が声をかけてくれてもそ知らぬふりをしてしまうことがしばしばありました。もちろん恋愛などできるはずもありませんでした。
しかしその一方では、テレビドラマや映画や小説や女性雑誌の「恋愛講座」などで当たり前のように繰り広げられている男女の恋愛の駆け引き(例えば、好きなのに好きではないふりをするとか)を真に受けて、大人の恋愛とはこのような難しい駆け引きをするべきものなのだと思っていました。
人と接することもままならない上、こんな変な恋愛観に支配されていた私がどんなに苦しい毎日を送っていたかは、思い出したくもないほどです。
でもその苦しいトンネルを少しずつ抜け出して、今は自分で自分のことをこれでいいと思えるようになりました。そうしたら素直に人のことも愛せるようになってきました。いつの間にか「石ころ帽子」も脱げていて、人が私のことをちゃんと認識してくれていることに気がつきました。素直に「好き」「キライ」「美味しい」「楽しい」「ウレシイ」「悲しい」「ごめん」が言えるようになりました。
石ともさんは「ローラヴ」とおっしゃってますが、「未加工」であることは、男女間の愛だけに留まらず、すべての面において必要なことですよね。私はそのことを「すべてを手放す」って言ったりしています。
すべてのことに対して、人為的な駆け引きや策を講じることや傲慢やプライドを捨てて、「好き」「キライ」「美味しい」「楽しい」「ウレシイ」「悲しい」「ごめん」が素直に言えたら、生きるのが驚くほど楽でシンプルになりました。
その上、ローフードに出会って外面的なコンプレックスも改善されつつある今、私はさらに自分のことを愛せるようになって、さらに人のことを愛せるようになりました。
>ロー・ラヴは防腐加工できない。
>ロー・ラブは、いつ消えてしまうかわからない、あるいはいつ死んでしまうかわからないリスクをいつも抱えているのです。
私は「ロー・ラヴは防腐加工する必要がないもの」といいたいです。
そしてそれは「リスク」ではなく、いつ消えてしまってもいいものと思っています。すべてを手放してしまったとしても、必要なものだけは必ず手元に残りますから。
長々とスミマセンでした。
これからもブログ楽しみにしています。
osmko さんのコメントを読んで、
>ロー・ラヴは防腐加工できない。
> ロー・ラブは、いつ消えてしまうかわからない、あるいはいつ死んでしまうかわからないリスクをいつも抱えている。
の後ろに1行付け加えてみました。
たぶん、こっちのほうが皆さん好きだと思うわ^^
今日、グスコー出版の佐藤社長と話をしていたときに教えていただいたんですが、
佐藤さんが前職で担当していた文芸の作家さんは、
いただいた原稿が1文字も直す必要がなくて
原稿もらったら、一週間後には印刷されて
書店に並ぶスケジュールでもオッケーだったんですって。
やっと「本当に書きたいこと」に
近づいてきたとはいえど、まだ「近づいた」の
段階で、皆さんのフィードバックをもらって
「こんな感じかな?」って書き変えている自分は、
やっぱりだからこの程度のへなちょこ作家なんだなあと
思いました。
春の排毒もそろそろ終わって(?)
本当にこれからがスタートですね。
「伝えること」より「感じることをゆるすこと」が一番難しいかな、
っていうのが今回の学びでした。
感じられたら伝えられるのはソフトな言葉でできる。
でも、感じるのが許せないと、とても攻撃的な書き方に
なってしまいます。
みなさんありがとう。
みなさんが大好きです!
興味深く皆さんの怒涛のコメント拝読しておりました!
恐縮ながら、読みごたえありました…。とても、勉強になりました。
石ともさん、私も最近実感していました。
「感じること」を棚にあげて、彼氏と、攻撃的な…空の口論をしたりしていました。
私は〜とにかく負けたくなかった〜(怒)!
(…笑)
日頃二人共お世話になっているヘッドセラピストさんがいるのですが、
そのかたの前で、普段の自分たちをあえて実演する機会がありました。
それで、黙って見守っていたセラピストさんが
「…きみらは極端に説明ばかり。
『感じたこと』を言えば、
伝えたいことは少しの言葉で足りるんだよ。。(^-^;」と、
半ば呆れ顔にて、助言いただいたものでした。。苦笑
…この他でも、自分が「感じることを許してない」なって、気付かされることは日々、多々あります(((^^;)
多分、心理セラピーとか受けるようになって、よく気付くようになってきたりしてます。
よーするに私が「ロー・ラヴ」の分野で初心者
なだけっすよ。
でも、ローフードを食べることは自分の問題と直面することが楽しくなることですからね!
幸か不幸かここ数年いろんなことを考えるきっかけが続き、自分なりの試行錯誤の生活をおくっていました。
私の場合は食から入ったわけではないのですが、最近行きつくところは食べ物なのでは、などと(やっと!?)思うようになり、
昨晩、なんとなくネット上をぶらぶらしておりましたら、こちらのブログにいきあたりました。
思わず夜を徹して、全部読ませていただきました。
なるほど、そうそう、と納得することがたくさん。
5月には、高田馬場でイベントをなさるそうですので、
是非参加させてお話うかがえたらなと楽しみにしております。
内容が変わったなぁ〜と感じたのは、この一連の流れからだったのですね。
いい悪いにかかわらず、私たちの感情を動かすのは、その人自身の内側に『ひっかかり』があるからだと常々感じています。
指にささくれがあると気になるけど、なんにもないときは、ちょっとした刺激に過敏になったりすることはない、みたいな。
今回のことも、なにかそういった反応を感じられた方の投げかけから、さらにそこで新たなやりとりが生まれ、倍音のようなすばらしいハーモニーが奏でられたように感じました。(合唱などだと、ホントは無い声(倍音)のことを『天使の声』といったりするそうですね♪)
不協和音って、いいイメージないかもしれないですが、実は『和音』なんですよね。
ローをやっていると、クリスタルボウルを鳴らしている時のような心地よい調和の響きを、自分のからだの中やコミュニケーションの中で感じることができます。
きっと、ローラブも同じなのだと感じます(〃ー〃)
いろいろ恥ずかしいので、お返事はパスさせていただきます^^;
退散…