「ベランダ菜園」というものに憧れてやってみたが、どうもうちでは無理っぽいことがわかった。
南向きで冬でも暖房がいらないぐらい暖かいから大丈夫だと思っていたうちのベランダだが、これでも野菜作りには向かないのである。
達人に聞いたところ、診断は「それでも日照不足」。言われたとおり、小さなバジルの鉢を一段高いところに移動させて、太陽にあたりやすくしたら、あっというまにすくすく伸びるようになった。その鉢をおろして青菜のプランターを載せたら、青菜は伸びるが、タイル床に置いたバジルは生育が止まってしまう。どうやら、その高さの上に置いておける小さな鉢1つに絞らないといけないようだ。
そんな中、床に置きっぱなしでたいして水もやらないのに、ぐんぐん、私の膝まで伸びてきた植物があるのだ。
じゃがいもだ。
じゃがいもはローで食べられないことはないが、これだけいろいろ食べるものがあるのに無理に食べる必要もないという感じで、つい、いただきものがごろごろと放置されていた。。
芽が出てきたちっちゃいやつを、なんとなくあわれに思って鉢に埋めておいたら、なんともたくましい成長の具合なのである。
他の野菜は生きられなかった状況下で。
さっすがー。この生命力がヨーロッパの飢饉を救ったのか〜。
いたく感心してしまった。
ドイツのソーセージにじゃがいもはいうにおよばず、ヨーロッパで肉とじゃがいも、チーズとジャガイモの例はあげたらきりがない。フランスのビフテックにフリット、イギリスのロースト・ビーフにマッシュ・ポテト、イタリアのニョッキ、東欧のじゃがいものパンケーキ……。
しかし、そんなじゃがいもの原産地は実は南米である。ペルー、チチカカ湖近辺の標高は3100m超という、寒冷地から、大航海時代に、じゃがいもはヨーロッパに渡った。
世界4大作物のうち、二つ(とうもろこしとじゃがいも)が南米原産なんですね。
「国富論」のアダム・スミスが「じゃがいもは麦の3倍の生産量がある」と試算したそうだ。ヨーロッパは飢饉の連続だったが、飢饉が増えると働き手を増やそうとして逆に人口は増える(現在の発展途上国が陥っているジレンマ)。「食べものを増やすか、人口を減らすか」、前者がじゃがいも、後者がアメリカ移民へとつながっていく。
で、その「未来の食べもの(16cの)」となったのがじゃがいもで、アイルランドをはじめ、ヨーロッパ全土に爆発的に伝播する。そして、アメリカ独立戦争の際の北米軍の食べものとして北米にも伝わる。
というわけで、じゃがいもは欧米料理にとっては「伝統」ではなく「外来種」なのだが、今や、なくてはならない料理として定着することになった。時期から言うと、日本に「てんぷら」が入ってきたのと同じころである。
現代の都会生活から考えてみると、じゃがいもは一長一短といったところである。
じゃがいものすごいところは炭水化物なのにビタミンCがとれるところ。炭水化物に保護されているため、熱でも壊れにくい。また、精製した穀物に比べて食物繊維も豊富だ。
だが、生活習慣病の人から悪者にされがちなのが、GI(血糖値上昇)の高さ。米・麦が60前後であるのにベイクド・ポテトは110以上ある。
それと、じゃがいも自体はカロリーはそんなに高くないのだが、口の中でぱさぱさするため、油か水分と一緒にとりたくなってしまうのが問題のように思える。
油分はもちろん、水分と一緒にとるのも、よく噛まずに水分と一緒に流し込まれてしまい、消化上よろしくない。じゃがいもを食べると、口の中の天井部で押しつぶしている感じで、「噛んで」はいない気がする。「マッシュ・ポテト」「ポテト・グラタン」みたいに、ますますかまなくてよい料理に魅力的な料理が多い。
ちなみに、じゃがいもの葉は芽と同じく「ソラニン」が含まれており、スムージーには使えない。Victoria Boutenko が「にんじんは根より葉の方が栄養があるのに、みんなにんじんの葉を捨ててしまうのはもったいない」といって嘆いているが、じゃがいもの場合は「根は食べないで葉を食べる」というわけにはいかないのである。
こうして、我が家で育つ唯一のグリーンの野菜は、食べられない野菜ということになってしまった。
しかし、そんなに悪環境に強いじゃがいもを見ていると、「物事には順番がある」と思わざるをえないのである。
じゃがいもは全然ローじゃないけど、そのときの、生きるか死ぬかに追い詰められたヨーロッパの人にとって、じゃがいもを食べるということが、「ベター中のベター」であった、ということなのだろう。
今でこそみんなが「おいしい」と思うじゃがいもだけど、私は、当時初めてじゃがいもを食べたヨーロッパ人の中には、「こんなまずいものを!」「(暗黒の地)新大陸から来たものなんて気味が悪い」と、と思った人もたくさんいると思うのだ。今の感覚でいえばカルト呼ばわりした人だっていかねない。なにしろ、じゃがいもは、当時の常識を決定づけていた書物、「聖書」にまったく書かれていない食べものなのである。
人間が「慣れてないもの」に嫌悪の理屈をつけることは、本当に簡単なのである。当時は品種も現在のようにいじられていないし、乳業だってそんなに発達してないから、誰でもバターたっぷりかけたほくほくのじゃがいもが食べられたわけではない。
ベランダにてわさわさ育ってしまったじゃがいもを見て思うことは、「ローで食べよう」というムーブメントは、誰か個人がそれを作ったとか広めたというのではなくて、「地球」というか「歴史」というか、そういう何か大きなものと我々との「合意」のあいだに生れたものではないかということである。16世紀にじゃがいもがヨーロッパに普及したとき、世界と人々の間で何らかの「合意」があったのと同じように。
20cになり、ローが「再発見」され、それが言語化されることができたというのは、そこまでの合意が成立した、ということなのだろう。でも、全員が「ロー・コンシャス」(「ローフーディスト」ではない)になるほどの合意にはいたっていない。その合意を無視して、いたずらに急いてみたり、一方で「ロー」という潮流をまったく無視しても、同様にうまくいかないような気がする。しかも、ごろごろと石が流れてくる川を逆流しながら歩くような、抵抗の多い生き方になってしまう感じがする。
「ローに気づいてしまった自分」、「ローにはやってしまうのをがまんする自分」との接点に、自分とこの世界との調和がある、という仮説をたてて、今日の長いお話はおしまいです。
本日もご愛読ありがとうございました。
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(2022/12/16更新)