10月13日、国立国会図書館に行ってきた。
見たい資料が二つあった。一つは、日本では1980年に発行された、『米国の食事目標―米国上院:栄養・人間ニーズ特別委員会の提言』通称「マクガバン・レポート」第二版。
もう一つは、毎日新聞社が発行する「月刊エコノミスト」1977年10月号に書いた、『特別報告・牛肉に群がるハイエナたち』。執筆したのは、1988年にガンで亡くなったジャーナリストの千葉敦子さんである。
「もはや戦後ではない」という言葉が使われたのは1956年の経済白書である。でも、私は完全に「戦後」が終わったのは1991年の牛肉自由化ではないかと思うのだ。
昨日、あるセミナーで食肉生産の現場の映像を見た(牛が生きたまま吊り下げられて電気ショックでバン! とやられたり、鶏がけけんかで身体を傷つけないようにくちばしを切ってしまうやつ。皆さん一度は見たことあるんじゃないかと思う)。それを見てつくづく思ったのは、肉、とくに牛肉というのは、いつからその過剰消費を諌めないとといけないほど誰でも手軽に食べられるものになってしまったんだろうということだった。
私が子どものころはまだ、「カレー」って豚肉だったよね? それも、ブロック肉ではなくて安い三枚肉(バラ)をちょっとだけ(いっぱい入れるとくどい)、肉を食べるためというより、だしをとるために入れる、という感じだった。ようするに、日本のカレーは長い間「豚汁」に味噌を入れる代わりにカレールーを入れて味付けしたものだったんだと思う。豚汁もそうだけど、ちょっとだけ入れて無駄遣いしない、当時のレシピには、「肉というのは貴重な資源だ」という考え方が流れていて、今の「肉を食べる」という文化とはまるで違うような気がする。
この記事は、食肉通信社のひとりの記者の退職を、オーストラリア大使館が彼女にわざわざ電話で知らせてきたことから始まる。なぜ記者は退職せねばならなかったのか? なぜ、関係業界とはいえ業界紙の記者の退職を、一国の大使館がわざわざフリーのジャーナリストに知らせてきたのか? その背後にある畜産振興事業団への取材、そして、この団体(政府代行機関である)に生まれる差益金(1年間で約150億円)の不透明な行方、を追っている。「ハイエナ」とは牛肉差益の利権にあずかる人のたとえである。
この記事を書く千葉さんのモチベーションというのは、「どうして日本の消費者は安い牛肉を食べることができないのか?」という消費者としての権利意識に基づいている。
ヴェジタリアンの人から見るとこういう疑問が出てくること自体がありえないからぴんとこないかもしれないが、当時、日本の牛肉の卸値はオーストラリアの牛肉の6倍だったそうだ。
で、その価格調整のために政府代行機関の事業団があるわけだが当時は円が強くなって為替差益が出、牛肉の国際価格が下がって利益が巨額(1年間で300億円)になる。これらがさらに利子収入を生み出す。ところがこの差益金の行方がよくわからず、業界のしくみに関する本を書いた記者が職を追われる。
政府公共機関なのでもともとは税金で作られた団体である。
もしも千葉さんがベジタリアンだったとしても、おかしいと思うだろう。
千葉さんは書いている。
「外国人が不思議がるのは、こんな高い肉を食べさせられているのに、どうして消費者が立ち上がらないのか、という点なのである。
食肉業界や関係者は異口同音に、欧米諸国と違って、日本では肉は基本的食品ではないからだという。だが、基本的タンパク源ともいえる魚の値上がりについても、目立つ消費者運動は見られなかった。
二○○カイリ宣言を各国が行うと、実際の漁獲量が減る前に価格がつり上げられ、〃魚ころがし“ということばはすっかりおなじみになったけれど、消喪者の反応はなぜか鈍い。
もう一点、斎藤氏が指摘したのは、食肉卸売市場が正常に機能していないという点である。日経流通新聞は七月二日付の紙面で、大阪食肉市場は、週三日しかセリをしていないと報道しているが、斎藤氏によれば神戸市場では、輸入肉は全然セリにかけていないという。この話も何人もの人から聞いていた。実際のセリは行われず、帳簿上の操作だけで、力のあるものが持っていってしまうのだという。
実際、神戸に限らず、個々の肉屋さんにあたってみると、安い輸入肉を扱いたいけれど、全然手に入らないという。事業団の指定店になっているところはいいけれど、ふつうの肉屋さんは、コネがなければ、輸入肉は扱えないのだそうだ。」
さらに、
牛肉というのは、どうやら、動物愛護というより、利権が生じやすい業界でもあることを千葉さんは明らかにしていくが、ただし、千葉さんは、これが「牛肉」の問題であるとは考えていない。
牛肉の場合はブツがでかいので金額も大きくなるが、「需要に対して明らかに供給が少ないとき、利権が生じやすい」というのは、肉でも野菜でも同じである。
輸入自由化が行われる前のバナナ、こんにゃく、海苔などにも利権はつきまとっていたそうだ。ベジタリアンが好きそうな食べ物を国内産業保護しようとしても、あまり幸せな経済構造は出来上がらないらしい。
今、私たちが一つ学ぶとしたら、地産地消にしても、政府によるコントロールはなるべく避けて、徹底的なボトムアップの活動が望ましいということだろう。「政府がしっかりやってね」という態度は、利権の温床を一つ増やすだけなのである。活動というか自治というのは、結局「民力」が問われるのである。
記事の最後で、千葉さんは芝浦の食肉加工場にまで取材の足を伸ばすが、加工場内で、追い込まれてきた牛とぶつかりそうになるというハプニングが起こる。
現在、食肉加工場で牛は電気で殺すのだが、1977年現在、牛は撲殺(たまに銃殺)だったそうだ。当然、労働災害も多く、失敗して角で突かれ、係員が大けがすることもあったという。人間も必死なら牛も必死な現場で肉は作られるのである。
単行本の『乳ガンなんかに敗けられない』が文芸春秋から発行されるのは1981年だから、千葉敦子さんがガンを発症したのは80年か81年と思われる。ちなみに、80年というのは、ガンが日本の死因の第一位となった年である)。
この牛肉の記事を書いた時、彼女はわずか3年後に自分が大病するなどとは考えもせず、「アジアン・ウォール・ストリート・ジャーナル」をはじめ海外の一流紙に英語で寄稿する経済記者として、生き生きと毎日を暮らしていた。ブラックなにおいのする情報に足を突っ込み、「屠殺場に入った記者が帰って来なかったという話もありますよ」という物騒な文句にもめげない37歳当時の彼女。1977年の37歳といったら、世間的には今のアラフィーの扱いだが、こんなレッテルをはることがそもそも彼女にはナンセンスなのだ。この明晰な文章からそのことが伝わってくる。
私が千葉さんのことを知ったのは、1988年7月の朝日新聞の彼女の死亡記事によってだった。日大駿河台病院の、4N病棟である。そこに私の母が骨ガンで入院していた。1ヶ月後、母は千葉さんと同じところに行ってしまった。
その後、私は彼女の著作を全部読み、かぶれまくって、3年前、彼女が愛した土地、六本木に引っ越してきて、ようやく彼女の本を全部捨てた。
で、彼女のことをすっかり忘れたフィールドで活動するようになって、突然、彼女が残した遺産ともいうべき記事にあたることになった。この記事は、その年の朝日新聞の年末論壇回顧で鶴見俊輔氏から秀作としてとりあげられた。
でも、最近まで、彼女が「牛肉」の記事を書いたことなんてすっかり忘れていた。どうして突然思い出したのかわからない。
「ガン」が彼女のテーマであったときは、私と千葉さんは「死」を共通点としてつながっていた。しかし、今「ガン以前」の千葉さんと出会うことによって、私たちは「今を十全に生きる」という共通項でふたたびつながった。そのことが、感慨深い。
参考資料
食肉需給の推移と食肉行政の経緯
http://www.maff.go.jp/www/counsil/counsil_cont/kanbou/syokuniku/4/siryou1.pdf
2009年10月25日
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(2022/12/16更新)