ローフードを始めてからいろいろな変化があるけど、これには「びっくり」以外のことばが出てきませんでした。まさか、そんなことがあるの? と。
「視力」は現代都市生活ではもっとも改善が難しいパートで、松田麻美子先生でさえ、「私がアフリカの何もない草原に行って生活したら、一週間で視力は元に戻ります。でも、都市で毎日コンピュータ見ているかぎり無理です」とおっしゃったぐらいですから。
それが、ローフード生活始めて3年目で、コンタクトレンズが2段階アップ(度が弱くなった)。
ナチュハイ始めた当初から比べると、コンタクトの度数が、
右)4.75 → 4.25 → 今回3.75になったが、左右を合わせるため4.25を維持。
左)5.25 → 5.00 → 4.75
しかも、今回の結果で特筆すべきは、検査を相当目を酷使した状態で行ったということです。「ビジー・ピープル」のプロジェクトを始めてから、とくにこの半年は、毎日PC10時間見ているような生活。先日も、忙しくてコンタクトを購入する時間がとれず、最後の一枚を切らしてしまって、仕事を抜けてあわてて買いにいったのです。
それでも視力が上がっていたのです。
昨日投稿した「股関節と大地のエネルギー2」にも通じることなのですが。
目が見えてない時って、今より文字通りものが見えていなかったと思うんです。まったく目の見えなくても、「ブラインド・サイト」(全盲であっても持っている視覚のこと。たとえば、目が見えなくても光が来る方向を指させたりする。こちら参照)はあったのかもしれないけど。近視って、本当に近くしか見えないというか。
でもね、どうして見えてなかったかといえば、それは、私を守るためだったと思うのです。
「異常な状況に対する正常な反応」
この言葉は、レイプなど性的被害を受けた心の傷から自傷行為や酒や麻薬などの依存症、摂食障害などになってしまった人に対して、フェミニストたちが使う言葉です。
「あなたはおかしくなってしまったわけじゃないのよ。そうなっても当たり前のことなのよ」
「それがなければ死んでいたから、あなたの身を守るためにそうなったのよ」
これって、すべての体調不良がそうなんじゃないかな?
だから、必要なとしているときはそれに守ってもらえばいいし、いらなくなったらかるーく脱いでいけばよい。
ただ、それにしても「視力」なんていう、どう見ても脱ぐことはないだろうと思った衣(ころも)がころりと脱げてしまうなんて。
「万感」そして、「畏怖」という言葉がこみあげるなか、
「ありがとう、またね」
と、手を振ってみる。