http://www17.ocn.ne.jp/~hana2/shiryou/mitiko-kougou_kouen.html
このスピーチは、私の世界観の基調になっているテキストの一つだと思う。「統合された愛と犠牲(ヤマトタケルとオトタチバナ)」「でんでんむしの悲しみ(人は誰でも背中にかなしみをいっぱい抱えて生きている)」「私たちは、複雑さに耐えて生きていかなければならないということ。人と人との関係においても。国と国との関係においても」。
中でも今、私の心をとらえているのは、読書が与えてくれたものとして美智子皇后が指摘する、二つの相反するベクトル―「根っこ」と「翼」についてである。
すごく面白い。この二つはどちらもサバイバルスキルなのに、効果がまったく相反する。根っこを持ってたら飛べないし、翼を盛っていたら根をはれない。そして、本来、両方とも人間に与えられていない。「根っこ」と「翼」を持つのは、人間にとってはあくまで比ゆである。そして比ゆだからこそ、人間はその両方を持つことができ、二つを一人の人間の中で統合できる。
私はこのブログのすべての記事、すべてのコメントを消さずに残してあるのだけれど、唯一削除してしまった記事があって(昨年の秋ぐらいだと思う)、その記事の中で、「孤児感覚」というものについてふれた。この「孤児感覚」とは、「自分には運命的につながれるもの(家族)がない」というあきらめの境地である。そして、「家族や共同体に属さないから冒険を楽しめる」という悟りの境地である。しがらみがないから荷物が軽い。動きも早い。そのかわり、こうなったら、共同体があなたを受け入れるとは限らない。あなたが死んでも誰も気がつかないリスクを負わないといけない。
「根っこ」はまぎれもない共同体感覚であろう。ぬくもりの感覚。人を愛している、人から愛されていると感じるのに、これほど強力な感覚はない。でもその代わり、自由意志だけで動けない重さをちらつかせる。
そして、美智子皇后の指摘で大変興味深いのは、「根っこ」も「翼」も、「私の内側と外側に橋をかける」ときに、両方とも助けになった、といっていることである。
あなたはこの数日、「根っこ」と「翼」、どちらに助けられて生きてきただろうか。
チェコの映画に『オテサーネク』っていう、木の根っこが擬人化して人を次々食べちゃう映画があるんだけど、それみたいに家族の共同体にからめとられて息も絶え絶えだった私は、その後、着々と「翼」つくりにまい進してきた。ローフードも「翼」つくりの一環だったのだろう、と、今では強く思う。2006年にナチュラル・ハイジーンを始めたときから、「生理が軽くなることは、私のサバイバルの一環である」という思いが強くあった。実際、あのときの痛みだったら、避難なんかできやしない。今回みたいに、まさか移動の途中でことが起きてもトイレットペーパーだけで処理がすんでしまうほどに向上するとは思ってなかったが。(これ、どれだけ人生を楽にしているか)
パートナーも王子様もいない私が、こういうときだけ「乗りなさい!」とやってくるペガサスを引き寄せたのは、偶然ではなく毎日うまずたゆまず作り上げてきた(もしくは思い込んできた)信念の具象化なんだろうと思う。マザー・テレサだってガンジーだって、信念がわらしべ長者のように運命につながるといっている。そう一日では変わらない。
でも、今回の私の向上は、私が「根っこ」のほうもないがしろにしなかったことだ。ペガサスさんが、私の親まで背に乗せようとしたシーンを思い出すと、私は今でも目が白黒してくる。
(ちなみに、父の東京脱出は、東京の電力消費量の節約にかなり貢献してるんじゃないかと思う。)
昨日、音声配信で「『いい人』といわれる男がいいのか『セクシーな人』といわれる男がいいのか」という話をしたけれど、結局のところ、私たちは、現在あらゆる局面で統合することを迫られているのだと思う。「迫られる」というより「ついにそういう局面にたどりついた」ということができるかもしれない。「セクシーで誠実」「根っこと翼は『橋をかける』という目的では一つのもの」。
そういえば、4月から用意していたロービューティなセミナーの演題も、二つの相反する命題をいかにすりあわせるか、というテーマがやたらと多くて、つまり私たちが向かおうとしている先は、あらゆる面での「統合」だと思われるのだ。「便利」は保ちながらエネルギー使用を減らすとか、別の方策でいえば、「不便」でありながら幸福を保つとか。
↑まだこの一つ前の『ネガティブを愛する生き方』しか読了していないのですが。。。
応援よろしくお願いいたします。


