70年代のフェミニストたちは社会に向かって「抵抗運動」もしたけれど、同時に、同じぐらい、今まで自分が無視していた「自分の中の痛み」に目を向けることを始めていた。この試みが、摂食障害などの問題を抱える人々が集う「セルフヘルプ(自助)グループ」や、カウンセラーが上から目線で指導をしない「ピア(仲間)カウンセリング」(今でこそ「患者さんに寄り添う」なんて言葉が常套句だけど、フロイトの頃はそうじゃなかったのだ)につながっていった。「インナー・チャイルド」という言葉を自分の中に発見し、(たぶん)初めて使ったのが、この70代フェミニズムのリーダー、グロリア・スタイナムだった。
で、私は、私の本のプロデューサー・きくちゆみさんが音頭をとっている「平和省プロジェクト」をお手伝いした2005年〜2007年ぐらいをのぞいて、徹頭徹尾「個人的なこと」にフォーカスを当て続けている。なぜかというとそれが一番効力が高いし(自分を変えるのなら誰の許可もいらない)、自分の外側に「敵」とか「悪」を作ると、「敵」扱いされて嬉しい人なんて誰もいないわけだし(どんなにその人が不条理であっても)もしもそういう人に働きかけるなら、今あるやり方とは違うやり方でやりたいなあ、と思っているからだ。
で、私は、今後も自分の話をさらに書きたいと思っていて、それが以前は「書かずにはおられない!」みたいなやむにやまれぬ気持ちだったのに対し、「自分の選択です」「私の責任です」みたいな気持ちが結構ある。自分の愛する食べもののことを今書いているけれど、実は、それと同じモチベーションの範囲で、うんちのこととえっちのこと(←ここ、韻踏んでます)を書きたい。
食べものの変化もそうだけど、その人が形作る信念(=コア・ビリーブ)が変わるとき、排泄と生殖も、それに負けず劣らず劇的な変化をとげるものなので、それはぜひ言語化してみたいと思っている次第だ。
さて、東京電力女性社員が1997年に殺害された事件に戻る。
彼女の父親が責任ある業務から降格され、1年後に病死、彼女自身も謎の死をとげた背後に、親子の「反原発活動」があった(因果関係の証明は不可能だが)ことは、今までまったく報道されていなかった。
かわりに、殺人事件の被害者なのに、あんまりすぎるマスコミによるプライバシーの暴露があった(ネット上では、彼女に対するマスコミのこの態度が、彼女への同情を消すための情報操作だったのではないか」という意見が見られる)。
だけども、さらにひっくり返してみてみると、彼女が行っていた、奇異で危険な「個人的な行動」は、そのまま、奇異で危険な「社会システム」とそっくり合わせ鏡、だと見えるのである。彼女の行動がさらされてしまったことが、本人の意にそっていたのか反していたかわからないが、(少なくともあんなふうに他人にずかずか踏み荒らされる筋合いはない)、でも、結果的に、彼女の「個人的な行動」は、「社会の危険なシステム」を告発していたのである。社会システムの危険を告発したかった、でもその手を封じられてしまった彼女は、彼女の、他の人には立ち入れない「個人的な行動」の範囲内で、他人が騒ぎ立てずにはいられないような行動を行い、もはや無意識に「社会の告発」を行っていた…… としたら、すごすぎる。
もしかしたら、それは「自己処罰」なんかじゃなかったんだ。
だからね、あらためて、「個人的なこと」に目を向けよう、と、私は思う。私の中で、「循環」は起こっているか。「微笑み」を芯から作り出せているか。自分の持っている豊かさに気がついていなくないか。気がつかなかったことに対して、責めてしまったり、突破口が見つからなくて絶望的な気持ちになってしまったりすることはないか。
排泄と生殖は「循環」や「微笑み」とつながっているのよね。だから、それに変化が起きたことは、私の「循環」や「微笑み」とつながっているのだと思う。
そして私は、食べものの話だけじゃなく、「父と娘」のことも、メルマガに書いてきたのよね(現在休刊中です)。死んでしまった父と娘は、本当はどんな関係だったんだろう。そして、娘の母親は? 彼女が言葉ではなく「お金のためでもなく楽しくもない性労働をし、殺されてしまった」という行動によって示したものは、いったいなんだったんだろう?
私の親子関係は現在良好です。「自己処罰」という言葉を聞いて、「自分にもある」と思うことももう遠い昔の気がする。多少がんばりすぎの人生ではあるけれど、今は私はそれを「選んでそうしている」と思っているし、そこから得ているごほうびもたくさんある。そう、どれ一つとして、やらない価値はなかった! と私は思っている。ちなみに私の先を歩いていると思う女性は、「(試合が終わってからも練習するような)完璧主義が私を作ったのよ」とのたまうテニス界最強のまじめ人間、シュティフィ・グラフです。そういえば、シュティフィも、お父さんにいろいろ悩まされてたんだよなー。
「あんまりな目にあった被害者」であった彼女が、私の中で、精一杯のことをやって、大変なことを世界に示して、死んでいった、ずいぶんヒロイックな姿に見えている。これって……、それはつまり、事件に対して「あきらめなかった人」たちがいて再審が決まるような世界の変化であり、「自己処罰」という自分の中の死の灰をはらいのけた自分の変化なのかしら?
被害者は私の大学の先輩で、似たような雰囲気の同級生も結構見た(勝間和代さん、高校、大学と同窓なんだな)。事件後、彼女の虚無的な姿に、「他人事と思えない」という女性(おもに高学歴、高キャリア)が少なくなかったときく。摂食障害の女性たちの共感は大きかっただろう。男性と同じように働く場が用意されたのに、さて、そこでは失うもの(結婚とか、過去の女性が幸せとされてきたこと)ばかりがあって、得たものは男性社会の権謀という悪霊? がべったり。私の友達も、法学部や経済学部でキャリアになった子たちは「ここは一生いるところではない」と思ったのか、みな結婚して子供を生んで退職してしまった。
でも、最近、そのうちの一人が子供を育てながら法律事務所に再就職し、昨年、司法試験に合格した。
世の中は、良い方向に向かっていることもある。悪いこともあるけど。
そして、その先にたって、一生懸命走っていってくれたひとりが、この被害者のY子さんだったと、今の私には見えているのだ。
天国にあなたの場所は用意されていますから、どうぞやすらかにお過ごしくださいね。
そして私は、これからも、個人的なことを書いていこう。
応援ありがとう! これからもよろしくお願いいたします。



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