もう今となっては懐かしい、2007年の秋のこと。
私の運命の舵が大きく切られた、アリゾナ州セドナで、きくちゆみさんと一緒にロー・スピリット・フェスティバルに参加した時、もっとも強い印象を受けたのは、次のようなことだった。
この年のロー・スピリット・フェスティバルは、フェスティバルの歴史の中でももっとも盛り上がった年で、参加者も多く、スピーカーはほんとうにもう、アメリカのローフード指導者が一堂に会するという感じだった。
室内のホールでシェリー・ソリアさんとアニー・ピョーさんが同じステージに上がってシンポジウムしてるかと思えば、野外のステージではデヴィッド・ウォルフさんがローカカオの効能についてスピークする、みたいな感じで、なんかもう、「ローフードのディズニーランド状態」というか。
でも、そのことが印象的だったのではない。ご存知の方もいるかと思うが、その各カリスマさんたちは、主張内容がかなり違っていることも多い。「油は使うな」と言っている人に対し「良質のオリーブオイルやフラックスオイルは積極的にとるべき」、「ローカカオといっても結局嗜好品」vs「健康のためローカカオは毎日摂るべき」、「グリーンスムージー推奨」vs「高速回転のブレンダーで撹拌したら、栄養が壊れるし酸化する」etc etc... 今、日本でローフードをかじった人たちが「これってどうなの?」とぶちあたってた疑問に対する答えが、「こっちが本当」ということがないまま同時に存在し、しかも、発言している人達が仲良く同じ場を分かち合っている。そういう光景をライブで見、その場を自分も共有したことが、とても強い印象だった。
ちなみに当時の日本の健康食がどういう状況かというと、(覚えてます?)マクロビオティックが全盛。私は、自分が体質的にマクロビがピンと来なかったというのもあるが、同時に「○○先生がおっしゃったことには……」みたいな、一神教的な雰囲気がどうも苦手だった。マクロビの世界を極めるには何年も勉強しなければならず、その学ばなければいけない先生というのが、ごく少数に限定されているようなのだ。「健康=自分の中の神様を作ること」と当時も今も考えている私は、どんなに栄養的に優れていても、それにくっついている哲学を食べたら、たちまちバランスを崩してしまいそうな気がして、手が出なかったという一面があるのだ。
それに比べて、アリゾナで見たローフードの世界は、とても多神教的なのだった。そして、上記に一応「各カリスマさんたちが仲良くしていた」「相手を否定しない」かというとそんなこともなく、「あの人が主張している食べ方はダメ」「油をたつなんて、とんでもない」みたいなディスりも遠慮なしであったのである(←私の英語力ではそこまでわからなかったのだが、後に洋書で確認して、どうやらそうらしいと気づく)。
つまり多神教の神様というのは、唯一無二の智慧と慈悲に満ちた存在、ではなく、すばらしい能力を持っているという同時に、欠点丸出しで人間臭いのである。そういう神様たちが、でもそれぞれに自分の信者を持っていて、その信者たちから見れば、圧倒的な信頼が供給されている。でも、信者じゃない人からは、ぜーんぜんぴんとこない(きかない)。
多神教というのは宗教の原始の姿で、人間の中で歴史が進み、文明化されてくると、宗教は一神教に集約されるというのが歴史の流れで、だから、一神教の方が宗教として進化した姿だと、今までは思われていた。しかし、一神教といういのは、「まかせとけば安心」ではあるけれど、使い方を間違えると、「架空の独裁者」を創りだし、大きな組織の中で人を動かすことと相性の良い宗教のスタイルなのである。神様が完全無欠でなく、他人の妻を寝取ったり戦争しちゃったりどれが正しいかわからなかったりする姿の方が、世界は秩序だっていないようで、実は、他者(神様)に頼らない内的規律を持って、神様のカッコ悪さを楽しめたり、欲しい教義をいいとこどりできたりするのである。
今の日本が、ようやくそうなってきているような気がする。ある指導者が、数年と数十人の経験で「良質の油はちゃんと摂らなきゃダメ」と言い切り、ある指導者は「悩んで私のところに来た人が、肉や乳製品をとるようになって体調が回復した」と言う。ある人が「海外で修行を重ねてきたうちのデトックスは本物」と言い切り、一方で、その観点から見たらまるで甘っちょろいデトックス・メソッドでも、それなりに結果が出てしまう。かといえば、そうした言い切りをやめてしまう神様もいる。各神様たちにはその教義でうまくいった人たちが集うので、それぞれの世界観は強化され、意見はさらに別れていく。(まだ、日本ではそれらの人々が一堂に会する機会はないが。今後もないかもしれないが)。
私は、ローフードで到達する人間のステイタスというのは、栄養学的にどれが最新とかを知るということではなく、むしろ、探っても探っても生まれてくる矛盾というものを「そういうものなのだ」と受け入れる度量を作るところにあるのではないかと思うようになってずいぶんたつ。食糧に課せられた第一目標はずっと「安定供給(=飢えないこと)」だった。しかし、その目標に達するために「高度に加工」という手段をとってきた食品を、「もうこれではダメだ」と卒業する地点まで来た人々は、同時に、「職の安定供給=大企業」とか、「無条件に委ねられる思想=一神教やナショナリズム」を卒業して、次のものを探すかもしれないのだ。そのときに、食事が「ロー=未加工」という、つい最近まで「未開、野蛮」と思われていた方法に戻っていったらそこに再評価すべき価値があったように、「個人=微力」「未発達=多神教」といった、やはり歴史の中で不要とされ一度は捨てられた方法に回帰、再評価する可能性は、大有りだと思われるのである。
別にローと関係ないところでも、世界はそうなっていると感じさせられている。ローフードが広がるというのは本当に人が自然の中で生きられる場所か、食品の衛生が確保されているということで、ある程度経済発展がしている場所であることが前提かのどっちかである。この、どちらも、大企業による画一品大量生産と相性が悪い。前者では貨幣経済が必要とされないし、後者では、豊かになった人々のニーズはニッチ化していき、大企業が作った「みんな同じ」の製品では満足しなくなっていくからである。かくして、「ある一定の細かいニーズを持ったお客様を圧倒的に満足させる」ニッチなビジネスが成功していく。それは、大企業もできないことではないが、小さな事業体でも十分に成功のチャンスがあるビジネス形態である。たくさんの事業体が、たくさんのニーズを満たす。というわけで、経済全体で「世界の多神教回帰」の現象が起こる(すでに、起こっている)。
そしてそのとき突きつけられるのは、人は、昔の状態に回帰して、個人というものの弱さを改めて知り、多神教の秩序の無さをあらためて知るということである。でも、私達には、その弱さに目を向け、秩序の無さや矛盾に目を向ける度量がすでについてきているから、そこにもう一度帰ることができたのだと思う。「度量」というか「ゆるし」というか。ああやっと見つけた、と、それらをちゃんと直視した人は思うと思うのだ。それらはみっともないから見たくなくて長年無視してしまい、ところが無視したためにとても人生が「精のないもの」になってしまった、人間のエッセンスに当たるものではないかと思うのだ。
↑最近、うちの教室でめちゃめちゃ評判がよかったローチョコタルト。
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