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2019年06月25日

「救われない物語」を求めてしまう人の心理

《あなたが何より救われるのは、「あなた自身の物語」を見つけること。
そしてそのために私がお手伝いできるのは、「わたし自身の物語」を語るこ》
略して、「あなわた」(最初「あなもの」にしてたけど、「わたし」を示すことができないので変えました)

(これまでの投稿)
その1 こちら
その2 こちら
その3 『サピエンスと物語と健康』 こちら
その4 『物語にのっとられて生命を落とした人々』 http://rawbeauty.seesaa.net/article/467302542.html

今回は5回目の投稿です。
『「救われない物語」を求めてしまう人の心理」』

人が「わたしの物語」を語ることができたときに、語った人も救われるし、その語りを受け止めた人も救われる、という仮説にもとづいてこの投稿をしています。
その中でしなくちゃいけないことが二つあります。
一つは、その仮説は果たして正しいのか? という問いに対する根拠を示すこと。
もう一つは、前回触れた内容、わたしも救われてあなたも救われてそんなにめでたい内容なのに、どうして読む人は別のものを求めるのか? について述べること。

今回は、その二つ両方について書きます。二つは重なっているので。

「わたしの物語」を語ることができると救われる、というのは、その作業とはつまり自己発見だからです。
 わたしは何でできているか、というと、細胞でできているかもしれないけど、実は物語でできているんですね(このあたり根拠を示すのが難しいですが、もう少し続けます)。
 しかし一方、わたしの物語を語る、自分を発見する、というのは、結構骨が折れる仕事です。慣れていない場合や、その引き換えに得られる救済感をまだ感じられていない場合には特に。
 人は、お金を払うとき、払ったことで「便利」を得たいものです。「便利=骨を折らないですむこと」が欲しいから購買活動するんですよね。お金を払って骨の折れることを買うのには、腰がひけるのもやむなし。
だから、良質の「わたしの物語」=「あなたの物語を発見できる触媒」ほど、骨が折れるから買いたくなくなる、ということになってしまいます。
 高い英語の教材買ったのに手がつかない、って経験したことありますか。あれは、お金を払って得られるのは「教材」であって、「勉強する手間の軽減」じゃないからなんですね。お金を払っても払わなくても、手間をかけて英語を自分の脳に染み込ませるのは自分の仕事。その手間が減らないから(むしろ増えるさらに言えば、しかも、手間をかけたから必ず身につくとさえかぎらない。。。 

 では逆に、「読むのがラク=自己発見を助けない、下手すると妨げる」物語ってあるのか?
 いっぱいあります。私は20年近く映画評論活動をして、世の中がそういうものがあふれかえっていることを知っています。
 そして、それらがしばしば、とっても面白いことも知っています。

 それらの特徴は何か、というと、「あなたが誰かを忘れさせる物語」なんです。
「あなたが誰かを発見させる物語」と、「あなたが誰かを忘れさせる物語」は、ある部分では似ています。どちらも、受け止める人に感情移入させます。それは、受け止める人と共通点があるから。おもにそれは「逆境に置かれている」ということです。
 ただ、大きく違うところがあります。それは、「あなたが誰かを忘れさせる物語」は、多くの場合、特別な力や、特別な運の良さを持っている。「あなたが誰かを忘れさせる誰か」は非凡な人。でも受け止める人は平凡な人。

 物語の中に入りこんで、あなたではない非凡な誰かに感情移入し、下手すると一体化することは、あなたが自分自身を探して四苦八苦するよりずっと楽チンに、しかもときにはそれ以上の気持ち良さを提供する。
 同じお金を払うなら、こっちの方がずっと払う価値がある。。だってラクだし確実だから。
 かくして購買活動はこちらに流れる。だから、買って欲しい人は買ってもらえるものを作る。

 物語のすべてが「わたしの物語」ではある必要はないかもしれないが、「誰かに求められるままに作られた物語」は危険です。語る方にとっても受け止める方にとっても。どうしてかというと、それはだんだん中毒化するから。「平凡な自分」への共感でなく、「非凡な自分」への同一化の方が膨れていくから。


 そして、「あなた(=読んだ人)が誰かを忘れさせる」物語の最たるものって、「権威と自分を同一化させる」物語なんじゃないかなあと思うのです。
 たとえば「国家」という権威に自分を同一化させる物語に快感を得てしまったとします。
 「自分が帰属している国家はすごくて」
 「その国家に帰属している自分はすごくて」
 「国家に裏打ちされた権威をもつ自分は、国家に帰属しない人間を受け入れられなくなる=どうにも邪魔になる」
 わたしはこんな推測をしています。

 「自分が誰かを忘れさせる物語」を求める人にとって、そのような物語は実は「救済」に感じられていると思うんですね。救われるどころか、破壊されてるんだけど。
 だからその考えを手放すのはとても大変、というかほぼ不可能。「変えよう」と思うのはその物語を持っていることがよほど自分を破滅に導いているとわかたときなんだけど、実はそういうときってなかなか来ないんですよね。そうならないようにすでにいろいろブロックを作っているから。
 たとえそのような考えが持てない(禁止されるとか)しても、その考えを捨てるのではなくて冷凍保存して、来たるべきときが来たら息をふきかえすような感じ。

 で、「あなたが誰かを忘れさせる物語」に耽溺する人がいたら、その人と付き合わなければいいのですが、そういうわけにはいかないようにでてきるんですこれが。。。
 理由は、「あなたが誰かを忘れさせる物語」をこころの食べ物とする人は、上にも書いたように、自分の価値観に合わない人を許せなくなっていくからです。誰だってそう? いや実は、「あなたが誰かを忘れさせる物語」を欲する人は、筋の通った「価値観」があるわけじゃないくて、自分の気まぐれや衝動を自分が取り込まれた権威に引っ掛けて叶えようとしているので、そうじゃない人の自由や安全が侵食されていくんですね。
 それなのに、その人たちを説得したり罰したりして変えることはできない。
 人が「救済」を求めるのは、多かれ少なかれ人がこの状況や心境に達したときではないかと思います。
 自分の自由や安全が侵食されていくのに、その、安全や自由を侵食するものを止めることができない。
 わーホラー。。。

 その中で、自分の安全や自由を再び確保できるためにできることがあるのか。
 イコール、自分が救済されるのにできることがあるのか。

 答えはすでに言ってしまってあるけど、次回に続きます。

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