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2009年12月02日

ドストエフスキーから学ぶこと 3

【「肉のハナマサ」銀座店にて】

 右も左も肉のトンネル! こ、こわーーーい、んです。もはや、私にとっては……。

 あの、赤い肉を見ると、「自分の皮がはがれた」状態のものが置いてあるような気がして、見ているだけで、もう、痛くてたまらなくなってきちゃうんです……。

 とくに「肉のハナマサ」って業務用ですから、ソーセージだろうがひき肉だろうが「1キロ」単位が当たり前。下手すると、あばら骨がまだついた状態の、迫力ある肉塊がどーんと陳列されてたりするんです。

 つ、つらい……。

 なんか、目がチカチカしてきちゃうんです。
 心臓がばくばくしてきちゃうんです。
 これは、掛け値なしの表現です。
 今書いていても、胸がドキドキしてきちゃうぐらいです。

 あの、赤い肉の海を見るのがいやで、ついに冷凍フルーツは買いに行けなくなってしまいました(まあ、その冷凍フルーツがこの肝試しを上回るほどの活力を与えてくれるものなら別だったかもしれませんが、それほどでもなかったというのもあります)。

(少しずつ、続く)



posted by 石塚とも at 19:48| ちょっと哲学的なこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月01日

ドストエフスキーから学ぶこと 2

「動物性のものをほとんど食べない」という事実はあるけど、その事実に思想信条をくっつけないことに気持ちよさを感じている私が、それでも体験したことについて。

 都内のあちこちに「肉のハナマサ」という業務用と小売りを兼ねたスーパーがありますが、ここでは、ストロベリー、ブルーベリー、ラズベリー、マンゴなどの冷凍の在庫がいつもあり、しかも安めのお値段で買うことができます。

 夏の間、これらの果物を浸水させたカシュー・ナッツと一緒にV様でガーしてアイスクリームにすると非常においしいので、在庫が切れたら買いに行くようにしていました。

 ところが……。

 銀座の土橋交番(新橋寄り)近くのハナマサがよく行く支店だったんですが、この店のレイアウトは……、冷凍フルーツ売り場は、地下1階の一番奥にあります。

 そして、この、冷凍フルーツ売り場にたどりつくために、階段を下りてすぐの位置に配置されている、精肉売り場を通らないといけないんです。

 そして、この精肉売り場が……。建物の構造上そうなっているのですが、売り場が通路を兼ねていて、右を向いても肉! 左を向いても肉! 真っ赤っ赤のトンネルのようなところを、通って行かないといけないのです。。。

(少しずつ、続く)





posted by 石塚とも at 23:40| ちょっと哲学的なこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月30日

ドストエフスキーから学ぶこと 1

 私は今、95%ぐらいのビーガン食ですが、ふだん「動物愛護」とか「地球環境保護」とか、そういうことは意識していません。自分の場合、「ほとんど植物性の食べものを食べる」という事実だけがあって、そこに「イズム」や「ストーリー」はない。そういう状態が自分にとって気持がいいのです。

 ところが、そんな人である私でさえ、ビーガン食を続けていると、動物の肉を目の前にしたとき、こういう反応を起こしてしまう、ということを書いておきたかったのです。

(少しずつ続く)



posted by 石塚とも at 23:24| ちょっと哲学的なこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月17日

……あ、ふわりと見えた。

 11月11日の投稿で書いた「レプティリアンって誰ですか?」と質問をいただきましたが、レプティリアンというのは、ピンクの本で100ページに出てくる、私がローフードを探すことになったきっかけになった憧れの君です。とってもハンサムだけでじゃなく、自己肯定感がすごかったんです。
 そして、いちばん惚れてた理由は体力があったこと。私もあんなふうにパワフルに生きていたかったの。今日は福岡、明日はソウル、明後日は上海、し明後日はシドニーとかいうスケジュールを平気でこなしてました。
 彼の潜在酵素に惚れてたのかもしれませんねえ。
 「私をキレイにした不思議な食べもの」という本を世に出してしまうことになった、不思議な人との、不思議な出会いでした。

 さて、話は変わりますが、1か月ぐらい前のこと。我が家の体重計の電池が切れました。その前から少し体重が増えていたのですが、「もうすっかり健康なのだから、1〜2キロの数字に一喜一憂するのは良くない」と思い、そのままほっておいたんです。

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posted by 石塚とも at 17:08| ちょっと哲学的なこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月25日

千葉敦子さんと牛肉

 10月13日、国立国会図書館に行ってきた。
 見たい資料が二つあった。一つは、日本では1980年に発行された、『米国の食事目標―米国上院:栄養・人間ニーズ特別委員会の提言』通称「マクガバン・レポート」第二版。
 もう一つは、毎日新聞社が発行する「月刊エコノミスト」1977年10月号に書いた、『特別報告・牛肉に群がるハイエナたち』。執筆したのは、1988年にガンで亡くなったジャーナリストの千葉敦子さんである。

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posted by 石塚とも at 14:28| ちょっと哲学的なこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月15日

ウィーク・タイズ

 今日(9月14日)NHKテレビを音声だけ(ラジオなので)かけっぱなしにしていたら、『クローズ・アップ現代(「希望学」とう新しい学問の特集)』で、「ウィーク・タイズ」というコンセプトを紹介していたのが、最近私が考えていたこととすごく合致した。
 「希望学」とは東京大学を中心に、学問の領域を超えて「希望」という科学的数値で測れないものをあえて学問しようという主旨のもとに学者たちが集まったプロジェクトだそうだ。


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posted by 石塚とも at 05:35| ちょっと哲学的なこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月03日

あいうえおの「あ」と「い」なのに

 報告が遅くなったが、7月22日のPARC自由学校の講義のときに、摂食障害についての質問が出た。

 ローフードの話をするときに短絡的に話しちゃうと「やせる」という話になってしまうのだけど、この「やせる」というのにも意味がいろいろあるが、
 ここでは、生活習慣病につながるような太り方のことではなくて、摂食障害(および予備軍)の子たちが陥りがちな「太りたくない、やせたい」という願望のこと。

 質問を言われたとおりに思い出せないのだが、私が答えた答えは、

「摂食障害に陥っちゃうほど『やせたい』という人は『やせたい』という願望と別の願望が癒着してしまってどっちがなんだかわからない状態。

 本当の願望に気がつかないのだが、それは、気がつくのがとてもつらいことだから。

 どうしてかというと、その願望というのは『愛されたい』ということで、それを認めたら『自分は今愛されてない』ということを(それが間違った思い込みだとしても)認めることになるから非常につらい」

 というものだった。

 なんだかその「愛されたい」という言葉を吐いた時、すっとしたのだ。(今でもその感覚が胸に残っている)

 昨年の12月から始めて6〜7回講義・講演をしたけれど、「あい」という言葉を口に出したのは初めてのように思う。
(あ、書いてたらまたじわっときちゃった。すごく気持ちが良かった)

 いつも講義では便通の気持ちよさについてえんえんと語る私だが(笑)、まさに「みちがついた」感じがしたものである。

 自分も結局、食べものを通して「愛」と「自分」をどうつなげるかという話をしたいのに、照れくさくてずいぶん遠回りな話し方をしている(ということに、その時気がついた)。

 「あい」を口に出すのは本当に恥ずかしくて居心地悪いのである。
 あいうえおの「あ」と「い」で一番最初に出てくるのにね。

 ああそうだ、江戸時代までは「いろはにほへと」で「あいうえお」がなかったから、「あい」もなかった。安土桃山時代に渡来したキリスト教の宣教師たちは、「LOVE」(ポルトガル語だからAMORかな?)を「おたいせつ」と訳したそうですね。
 
(ああまた逃げてこんなトリビアばっかり書いている(笑))

 人間って、絶対に気持ちいいことしかできないのよね。それだけは間違いない。暴言を吐いたりアルコールやドラッグが気持がいい人も、それが知る限りの最高の気持ちよさだからやっているわけだ。

 一方で、「愛を伝えていける人になりたい」なんて決意を固めるのも自分的にはちっとも気持のいいことではなくて、やっぱり「あい」は、語ったり説明したりすることはできなくて、自分がやっていることから見えてくるしかないな、と思うから。

 「あいされたい」という願望を口にだすのがつらいのは、「ということは今愛されてない」ということを認めるのはつらいし、もう一歩つっこんで「本当は愛されてた、大勘違いだった」ということをみとめるのもつらい(恥ずかしい)からじゃないかと思うのですが、皆さんいかがでしょうか。
(後者の方なんて顔から火が出る気がして、その立場になったら、冗談抜きで自分が入るための穴をスコップで掘ってしまいそうな気がする)

 ローフードをやっていて感じるのは、この恥ずかしさを感じずに、さまざまな形をとって現れる自分の欲望と、「私を愛し、世界を愛の視点で見る」という願望とを自然な形で結び付けてくれること。
 だから、「あれ? なんてこのあいだまであんなにやせることにこだわってたの?」とか「なんであんなものが欲しかったの?」とかそうなってることがよくある。
 へたすると、ローフードを食べ続けていると「ローフードじゃないといけないんだ!」みたいな強迫観念までとれてくる。
 
 これもよく講義で話すのだけれど、
「ローフード」以前は、「きれいになる」ということは、資本主義にあまりに操作されすぎていて、「きれい」というひな型が決まっていて、そのきれいにあてはまろうとする息苦しさがあった。
 一方で、消費者運動家(フェミニスト含む)がすすめる「女性としてのきれい」は、自然すぎる、というのかなんというのか、たしかに着ていてラクだけれど、これを「きれい」というのかなあ、という疑問もあったりして、だったら「資本主義的きれいのほうがいいなあ」と「転んで」しまうこともしばしばだった。
 ローフードをやってよかったことは、「自分が楽」ということと、ある程度の「資本主義的きれい」が一致して、「これならやっていていいなあ」と思えるものを探し当てられたことだ。そういうものが存在するんだ、っていう発見は、生きていくうえでものすごい希望を与えた。(ちょっとおおげさですけど、本当にそう思った)

 そういえば、先週、マナ・カードで愛のカードをひいたばっかりだったのに、週末はそれも忘れてた。でもまあいいや。
 「あいをかたらずにあいをいきる」。そんな大それたかっこいいことがしたいって思ってる自分を、ちょっと恥ずかしさがとれて口に出してみました。

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posted by 石塚とも at 10:53| Comment(9) | ちょっと哲学的なこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月24日

「ベトナムとの戦い」と「ガンとの戦い」を同列に考えていた大統領

 8月8日に公開される、フランスの小学校を舞台に、学校給食をすべて地元のオーガニック食材にしようという試みをおったドキュメンタリー「未来の食卓」。環境に関心の強い人に向けた試写会も行われていますので、このブログの読者にはチェック済みの方も多いかもしれません。

 私も先日拝見したのですが、その中で印象に残ったのが、映画の大筋と少しそれるのですが、引用されたアメリカ大統領の言葉でした。
 1970年代、アメリカでガンが深刻な社会問題となり始めたころ(たった40年しか昔でないのか! 今じゃ「病気で死ぬ」といえば「ガン」なのにね)。当時のニクソン大統領が宣言した政策の柱二つが「ベトナムとの戦い」と「ガンとの戦い」であったそうです。

 そして、「ガンとの戦い」の切り札として推奨されたのが、今となっては悪名高き「化学療法」だったそうです。当時は「アポロが月に行く」と同列に考えられていた科学の最先端だったのでしょうが。

 化学療法がどんなに大変かは、私の20代〜30代の人生のメンター、千葉敦子さんの本に出てきます。



 髪の毛が抜けるのは有名ですが、壮絶なのは「吐き気」ですね。千葉さんは「吐き気」と書いただけで吐き気がこみあげてしまい、紙袋を用意して吐きながら原稿を書いた、というほどひどいものだったようです。
 そして、アメリカ人にとって、高い医療費も問題だったようです。ガンにかかると、病院から、しつこいぐらい「どういう保険に加入しているか」聞かれた、といったことなどを千葉さんは書いています。

 映画では、「この戦い方は、間違いだった」と結論づけています。

 そして、アメリカのもう一つの戦い、「ベトナムとの戦い」の切り札となったのが、こちらも悪名高い「枯れ葉作戦」だったわけです。つmり、こちらも、化学液体で、「共産主義」という「世界のガン」を撲滅しようとした。
 そして、こちらもやっぱりうまくいかなかったわけです。

 1970年代って冷戦まっただなかで、世界を2色に分けるっていうか、そういう時代だったのかな? って思う。悪いものは撲滅! それに疑問を考える暇もなく。

 でもね、だとすると、今の世界的な潮流→環境問題への世界的な大きなうねりを見ていると、数十年後から見たら、「あの頃、そういうふうにみんな思ってたんだよねー」ってやっぱり思うんじゃないかな? って、思う気がどこかにあります。
 潮流の中に巻き込まれているときは、自分が何をしているかは見えないものだったりするから。でも、何が間違っているのかはわからないけど、運動の中に「何かを忘れさせてくれる感覚」を感じて、「流れにのるのはいや!」って思っちゃったりする(ローを続けたら、この感覚はとれるものなんだろうか? それとも、ますますはっきりしてくるだろうか? 我ながら楽しみ)

 当時の「ガンとの戦い」「ベトナムとの戦い」が時代の要請によるものだったとしたら、その「要請」をしたのははたして誰なのか?
 地球が私たちで私たちが地球なのだとしたら、実は、最大の黒幕は「地球」そのものだったりして? などと、考えています。アシモフの「アイ・ロボット」風に。
 
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posted by 石塚とも at 17:04| Comment(8) | ちょっと哲学的なこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月10日

「安心」〜山川夫妻の講演会2〜

「安心」って、雑誌「壮快」の姉妹誌だし、小学2年生で習う漢字を使った簡単なことば。

 でも、それが何か? ということについては、「健康」って何? とか「愛」って何? というぐらい、難しい気がする。

 そもそも、「ああ安心」って思って過ごすことが、1日のうちどれだけあるだろうか?

「安心というのは、あなたが何者であるかを知り、何をするためにこの世にいるかを理解したとき、初めておとずれるのです」
〜〜カレン・キングストン




 ミクシのプロフィールの「好きな言葉」のところにそう書いてあるのに、「ああ、安心」って思うこと、あまりありませんでした。

 もちろん、「保険に入ってれば安心」とか「役所に勤めていれば安心」とか、「結婚すれば安心」とか、そんなもので安心が得られないことはわかってます(笑)
 
 でも、やっと、「自分で作り出す安心」というのは、自分の心のポジション取りなんだということがわかってきました。

 月曜日の講演会のときに、山川紘矢さんが、最後に「だいじなのは安心していることです。大丈夫ですから」とおっしゃったのが、すごく心に入ってきたんです。

 山川さんのお話は、「外側の自分=エゴ」と「ほんとうの自分(ピュアピュアなソウル→私の勝手な解釈)」を見分けられるようになる、ということで、それが見つけられたら自分のことを好きになるのはとても簡単だし、安心していられるとのことでした。
 最近山川さんはかなりエックハルト・トールに傾倒していて町田で勉強会もされているそうです。

↓かっぱくん強力推奨のこの本も読み返してみよう。


↓日本語版も出てました。


 ほんとうのピュアピュアな自分の魂を見つけるためにはいろいろな方法があり、私もそのいくつかを試してきたし、ローフードもその一つだと思うんだけど、最後に(もう終わりじゃないかもしれないけど)がつんといいところに1本部品が入った気がしました。

「安心」は、ふわふわで、あったかくて、気持がいいものです。

 子供のころ安心が得られなかった人でも、得られます。

 だからあなたも心配しないで、安心していてください。


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posted by 石塚とも at 14:06| Comment(2) | ちょっと哲学的なこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月21日

食べものは胃腸の食べもの、言葉は大脳の食べもの

 昨日の講義のときに、「現代の食生活では、人は食べるものを大脳で決めているが、ローフードでは、何を食べ、いかに食べるかは胃腸が決める」という話をさせていただきました。

 サルの頭がい骨と人間の頭蓋骨の絵まで描いて(笑)、脳の大きさとあごの大きさを比べたりしました。

 あんなに大きな脳で食べることばっかり考えていたら、神様からもらったのに、もったいないですね(笑)。

 食べることから解放された脳こそ、本当に人間にしかできないことに使ってあげましょう。

 学校教育の国語教育では、「自分を知るために日本語を使う」というトレーニングをほとんどしません。
 「私の気持ちは何なのか?」「私は何を求めているのか?」というのは言葉がないと認知できないのですが、そのための時間を、学校にいる時も出てからもほとんと我々はプラクティスしていないのが現状です。
 言葉は人間の大脳に栄養を与える食べものですが、私たちの大脳はそういう意味でとても栄養失調です(あるいはジャンクフード食べ過ぎ)

 自分によいエネルギーのことばを与えてあげるだけでなく、相手に自分の希望を的確に伝えられる言葉の使い方も学びたいものです。
 だって、動物にはできませんからね(笑)。

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posted by 石塚とも at 11:53| Comment(1) | ちょっと哲学的なこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

平和とは、「HOW」である。

 昨日の講義で、食べものというのは、You are what you eat (あなたは何を食べるか)だけでなく、 You are how you eat (あなたはいかに食べるか)である、という話をしました。
(You are what you don't eat あなたは何を食べないか、である、っていう話もすればよかったですが、忘れました^^。)

 で、You are how you eat に戻って。

 How you eat というのは、「どういう順番で食べるか」とか「早く食べるか、ゆっくり食べるか(よくかんで食べるか)」とか、「心を落ち着けて食べるか」とか、「笑顔で食べるか」ということを含みます。
「なんとなく(刹那的に)食べるか、あるいは目的意識をもって食べるか」「食べる(入れる)ことだけフォーカスして食べるか、食べた後何が起こるか予測して食べるか」なんてのも含まれるかもしれません。

 こうして考えていくと、HOW(いかに)というのは、WHAT(何を)というより、どんな行動のキーになっていることがわかります。
 
 そして、これらのHOWが意識されていると、日常生活で葛藤はほとんど起こりえないことがわかってきます。

「負担の少ない順番に」「ゆっくり、落ち着いて」「目的意識をもって」「結果を常に予測して」「笑顔で」。

 タイム・シフティングの作者ステファン・レクトシャッフェンも「大切なことは『何を』するかではなく『いかに』するかだ」といっていますが、



 つまり、「平和を行う」というのは、銃を捨てたり、とか、一定の行為を示すのではなく、日々、すべての行為を「どう」するか、ということだと思います。

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posted by 石塚とも at 11:38| Comment(0) | ちょっと哲学的なこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月15日

自分が「憎んでいたもの」になる

 レプティリアンのことを知ってから1年ぐらい、まずは、自分が「レプティリアンに首ったけなんだ、それはもう逃れられない運命なんだ」ってことを認めるのが大変でした。

 静歌さんが、「なんのためにローフードをしているのか」という記事で書いてくれていますが、

 依存症(摂食障害やセックス依存なども含む)は、「『いま、ここ』の一致感と『思考すること』の乖離感とでエネルギー的にこんがらがっているから起こる現象」
(←なんてうまい説明なんだ〜 ぐっときちゃった^^)

 つまり、「外側から見ると、あたかも『好き』であるように見えるのに、本人は決してそうではないのだが、自分を説明する状態を好き』以外に思いつかず、苦しい状態」のこと。

 レプに対する気持ちって、最初のころはまさにそれでした。

 こっちを向かせたいのにも関わらず、絶え間なく「ああっ、なんてにくったらしいやつ!」って思っているのです。

 細かい点を列挙すればいろいろあるのですが、一番のにくったらしさの原因は、あの強烈な自己肯定感だろうなあ、と思います。

 何があっても何をしても、「連絡するよ」といってしなくても、「だから、何?」っというあの態度〜〜〜。
 自分がハンサムで人気があるってわかってることから、すべての行動選択が始まってる感じなんだなあ。

 そう、その「ごーまんさ」を、私は憎んでいました。
 人間、あんなに謙虚でなく生きられるものか。
 そう思っていましたねー。

 でも、そのとき、私はわかっていたんです(言語化はまだできてなかったけど)。
「憎んでいるもの」と「憧れているもの」は、限りなく近いところにある、と。
 薄い紙一枚通して、背中合わせにくっついてさえいるような。

 レプを知って、私は少しずつ、その「憎んでいるもの」になる、ということを始めました。
 最初に会ったとき、レプは私にとって完全に「異物」だったけど、私の中にレプを作り始めたのです。

 これを書くのに恥ずかしいような、でも泣いてしまいたいような感慨を覚えますが、それが「愛」なんだろうと。
 自分に対する愛でもあり、レプに対する愛でもあり。

 人間は、自分が好きです。
 相手の中に自分と同じものを見ると、その人のことを好きになります。
 反対に、自分が「これだけはなるまい」と思っているものがあれば、その人を嫌いになるでしょう。
 自分が「これだけはなるまい」と思っているものが、実は「憧れているもの」であるとしたら?
 たぶん、その問いからしか、人間の変容って始まらないんじゃないでしょうか。
 自分の中の好きなものばっかり相手に見て、そういう人とばかり付き合っていたら、その人の世界観は、永遠に変わりませんからね。

 実は、これは病気に対する考え方とも共通している、ということを、最近知りました。

 日本語版「フィット・フォー・ライフ」を読み返していたら、533ページ(松田先生の補遺の部分)に、「病気治療の5つのアプローチ」というのが出ていて、

・ナチュロパシー(自然療法)
・ホメオパシー(同種療法)
・オステオパシー(整骨療法)
・サイコセラピー(心理療法)
・アロパシー(逆症療法)

 ナチュラル・ハイジーンのように、食べ物の自然の力を利用して病気を治療、予防する方法は、「ナチュロパシー」に含まれます。
 それから、「アロパシー」というのが、現在の西洋医学の主流(っていうか認可されているもののすべて)ですが、症状と反対のものによって症状を緩和する考え方です。(熱が出たら消炎剤を、うつ病には抗うつ剤を、という考え方)

 そして、「ホメオパシー」というのは、代替医療に興味のある方は一度は聞いたことがあるかもしれませんけど、「同じ種類の症状を与えて原因をなくする」という考え方ですね。たとえば、熱が出たら冷やすのではなく温めて、徹底的に熱を出しきってしまうようなやり方がホメオパシーです。

 私がやろうとしたことは、人間的なホメオパシーのようです。
 
 今は以前ほどレプに会えなくて悲しくはありませんが、レプのことを「冷たい」とか「非人間的」と思う気持ちもありません。(←こうした「ジャッジ」は、ノンヴァイオレント・コミュニケーションではありません)
 自分の中にレプと同じ要素がありますから、相手を憎んだら自分も憎むことになってしまいますから、そうはしません。
 
 毎日自分が突き進んでいくチャレンジの道の中で、もっと「レプ的要素」が必要だなー、と思ってます。レプ的要素が自分の中にあったら、こんな困難、絶対起こさなかったのに、そのためにぶちあたっちゃってるなあ、と思うことがしばしばです。
 3年間、レプが「好き」といいながら、まだ、レプの良さを本当に認めているには全然遠いってわけですねー。
 
 でも、私は変わりたいんです。
 もっとレプ化しますように。(笑)

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2009年06月14日

大人の女性に脱皮する

 男性との関係で変わってきたなと思うこと。

【恋愛そのものへの期待値が下がった。】

 ミクシのナチュハイコミュのこちらのトピの発言26にも書いたのですが、
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=35078427&comm_id=629746

 恋愛も食べものと同じで、人間様の恋愛は、「生きるために必要な?」恋愛と、文化的な恋愛、というか、コミュニケーションを楽しんだり、人間ならではの刹那的な快楽を楽しむ部分の両方があると思うのですが。
 その後者の「恋愛」への興味がすっぽりと落ちました。
 性欲も、何かいらいらするような、激しいような、「情念」とでもいうような熱くねちっこいパッションがすっかり落ちました。

 恋愛とか性欲って、動物は生殖器官でする(子孫の再生産本能に従って)するんですが、人間の場合は大脳でします。(だから毎日発情できます)
 でも、食べるものへの興味が、大脳のお導きから胃腸のお導きにシフトしてしまうと、恋愛をどこで感じるかも変わってくる感じがします。

【相手への期待値が低くなった。】

 恋愛への期待値が低いから、相手への期待値も低いわけです。そうすると、彼らのことがよく見えるようになりました。
 これは、自分のいいところが見られるようになったのと、寸分たがわず合わせ鏡のように反応しています。

 先日、叶姉妹のブログを見ていて、恭子さまが愛している「メンズ」ってどんなもんなんだろう? っていつも思ってたんですが、ブログにちらっと映ってたんです。
 それを見て、「なーんだ、こんな感じなら私の(ここで所有形容詞は使いたくないのですが、便宜上使わせていただきます)メンズのほうが、素敵じゃない」って思ったんです。
 ルックスはラブリーだけど、インテリジェントな感じはしなかったんですね。きっとそういう観点では選んでいないんでしょう。とりあえず、自分ができるかぎりの最高のものを選んでいるという感じがしました。
 自分が変わっていけば、これから相手ももっともっと変わっていくでしょう(相手が入れ替わるという意味でも、相手の中身や態度が変わるという点でも)

【自己イメージが変わった。】

 やっと昨日のことですが、「自分って本当に恋愛下手なんだ」って認めました。
 つまり、自分は今まで「恋愛下手だ」「だめんずだ」って口ではいってたけど、本当には認めてなかったってことなんです。
「恋愛下手で」「だめんず」であることが自分に必要であり、そういう状態が心地よい状態だったと思うんです。
「大人の」「美しく」「セクシーで」「恋愛上手」であることに、抵抗があった、照れがあった、恐怖があった(そうなってしまうことで何か罰を受けるような気がしていた)ということでしょうね。

 実はこの投稿を書きたいと思って、1週間ぐらい筆が止まっていました。
 この投稿を書くときに最初に考えたタイトルは、「ローフードでだめんずはなおるのか?」でした。
 でも、書こうとするとなんだか「違う!」気がして書けなかったんです。ちょうど、重い加熱食を前にしてぱったり手が止まってしまうように。
 そして気がついたことは、「ローフードでだめんずはなおるのか?」というタイトルそのものが、もうだめんずである証というか、「だめんずキャラであることで、皆さん私を愛してね」という甘えであることに気がついたんですね。

 その殻が、ぽろりとさなぎを脱ぐように剥がれた気がしたんです。
 
 少しずつ、注意深く飛び立たねばね。
 さなぎから出たばかりの蝶が、濡れて丸まっている羽を、ゆっくりゆっくり乾かすように。

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2009年06月10日

証拠がないから

 今、ヴィクトリア・ブーテンコさんの 12 steps to Raw Foods をゆっくりゆっくり読んでいますが、



3章のあたまのクォーテーション(引用)には、次のような言葉が使われています。

"All truths are easy to understand once they are discovered; the point is to discover them."
-Garileo Galilee


"すべての事実は、いちど発見されてしまえば、理解することは簡単である。〜問題はそれが発見されるかどうかだ”
ガリレオ・ガリレイ


 さすがに地動説を発見した人の言うことは重みがありますが、ガリレオがそういった意味も、ヴィクトリアさんがここに引用した意味も、ローフードを食べ始めたら、よーく理解できることと思います。

 ジョーダン・メアリンも「ローフード・フォー・ビジー・ピープル」の中で、「ローフードの有益性が発見されてから40年ほどたつが、それの科学的根拠がすべて発見されるのに、あと40年かかるかもしれない」といっています。

 私たちは、すべての科学的根拠が発見されるのを待ってはいられません。ローフードの恩恵を受けたかったら、証明されていない「何か」を信じて、一歩踏み出さないといけません。

 ちょうど、水平線の左右が下がって見えたり、水平線の向こうから見えてくる船がへさきから見えてくる、というだけで「証拠もなく」海原にこぎ出していった船乗りたちのように。

 多くのローフード・ブロガーが、「自分の体を実験台に」といっています。なんて素敵な考え方なんだろうと思います。だって、100パーセント自分の責任って、「自分の体を実験台」にすることでしか生まれないもの。

 もしかして、証拠が出揃っちゃってたら、つまらないからローフードやらなかったかも、とか、ふと思ったりします。
 
 まだ未知の海域が多いローフードという海にこぎ出したことは、自分の人生に自分で責任をとる! という決意がそうさせたことで、インナーチャイルドがのびのびと成長を始めた第一歩だったといえるかもしれません。

 「一生のタカラ」はローフードそのものというより、実はこの、人生への自己責任とインナーチャイルドの解放だったかもしれないのです。

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posted by 石塚とも at 00:28| Comment(4) | ちょっと哲学的なこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月31日

Rちゃんとの、「何かを変えた」電話

 先日、久々にRちゃんと電話で話しました。
 Rちゃんは、映像作家の根来祐と並んで私が「盟友」と考えている友人です。
 Rちゃんはブログとかmixiはやっていないので電話しないかぎり彼女の近況を知るすべがないのですが、彼女は私のブログをほぼ毎日読んでくれています。

「ともさん、しばらく話さない間にどんどん発展してて、すごいすごい」
「ありがとう。でも、いちばん発展してほしいことは全然してなくて、これでいいのかどうかわからないや……私の目標は、健康になって、美しくなって、経済的にも精神的にも自立して、いつも美しさと健康が保てるようにどこに行ってもローフードの知識が当たり前になって、それもこれもぜーんぶレプティリアンがいつ来ても準備をぬかりなくしておくことなのにー」

 それを聞いて、Rちゃんは一瞬、黙りました。

「ともさん、今でもレプティリアンのこと、好きなの?」
「うーんと、Rちゃんはわかってると思うけど」
 と私。

「レプじゃなくてもいいよ。でも、レプはいまだに、私が『こういう人がいたらいいな』っていうのの、一番近い形であることは間違いないの。自由で、『俺の人生、好きに生きて何が悪い』っていう強烈な自己肯定感があって。
 私、ひとりの男に惚れて自己喪失しちゃったりはしないし、今までもできなかったよ。そんなふうになるには、私は理屈っぽすぎる。
 ただ、ローフードが、私がずっと探し続けた、既存の食べものの価値を打ち破る食べものだったみたいに、男女の人間関係も、まだ見たことがないけど、『こういうものがあるはずだ』という予感がある。私はそれを探しているだけ」

 それを聞いたRちゃん。


「ああああああ〜〜〜〜〜、良かった」

 そして、
「ごめんねごめんね、これから気をいうことで、気を悪くしたらごめんね」
「何よ。Rちゃんのいうことで気を悪くしたことなんてないよ」

「あのねあのね、最近、ともさん、『ロー・ラブ』とかいって、相手からラブラブされてることとか、幸せそうに書いてるじゃない?」
「うん」
「あれ読んで、ともさんは、どうするつもりなんだろう、って思ってた。ほんとにほんとにごめんね、ともさんの幸せ壊すような発言で。
 でもね、私、『あーこれでともさんがガブリエルさんか誰かとパートナーシップをもって、郊外の住宅地に家を買ってそこで家庭菜園やってローフード教室なんか始めたら、石塚ともはもう終わりだー』と思ってた」

 おおおおおお。なんてふに落ちるようなことをいう人だ。

 Rちゃん、あんたは偉い。

 私は心からそう思い、彼女の発言に頭を垂れました。

 Rちゃんは、こうもいいました。

「毎日ともさんのブログを読んでるけど、『わー神様はこの人にチャレンジをふっかけてくるなー』って思って読んでた。
 いろいろあったじゃない? それも、ともさんが自分のトラウマをちゃんと乗り越えているのかを試すような出来事が。
 でもともさんはちゃんと一つ一つ処理した。自分がどうしてその行動を選ぶか説明責任を果たしてたし、次はどうしたらもっと良くなるか、根性論じゃなくて具体的なアクションを考えていた。

 私は思うけどね、神様はともさんに、これからももっとチャレンジをふっかけるよ。だから、ともさんの人生はこれからもっと大変になる。
 でも、ともさんはそういうチャレンジがしたくて選んでいる。ともさんは、それを処理していった先に、自分が求めているものが形を現すとわかっているからそうなるんだと思う。
 ともさんは、この何年間も、学んだことを忠実に実行しているもの。そして、何年も前に『こうしたい』といったことを全部実現している」

「ありがとう」
 私は本当に胸がいっぱいになっていいました。

「私、なんだか自信がもてた。いや、確信に変わったといってもいいかもしれない。
 『私が求めるものがきっとあるはずだ』と思い続けたらローフードを見つけたんだものね。
 私にまだ見えていなくて、でも『あるんじゃないか』と心のどこかで思っているもののが、いつか形をあらわす。もう心配しなくていい。そのつもりでいられる」

 
 私が書くものの調子が変わったのは、その日からのことでした。
 私は自分が受け取るべき宝を想定し、その宝を受けとる準備ができました、と、誰でも(人も、天も)、わかるような行動をするようになったのでした。



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posted by 石塚とも at 01:11| Comment(4) | ちょっと哲学的なこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月27日

ローフードとライフワーク

 一昨日書いた、「『ローフードを使ってビジネスできたらいいなあ』と、ちょっとでも考えたことがある人へ」の続きです。

 本田健さんの『ライフワークで豊かに生きる』



 には、

「ライフワーク」を構成する要素として、次のように書かれています。

* 生まれ変わってもやりたいこと
* それをやっているだけで楽しいこと
* 見ているまわりまで楽しませ、幸せな気分にさせること
* 無人島に流れ着いてもやりたいこと
* お金を払ってでもやりたいこと
* いつもまわりの人にほめられたり、「もっとやったら」と薦められること
* すこしでも時間があればやってしまうこと

 そして、「ライフワークをしていると起こる現象」として、次のような要素をあげています。

  * 「静かなワクワクと感謝」があること
(わーっと燃えあがるような情熱は、下記の「衝動行動」であることが多い。)
* 「つきることのない情熱」が湧いてくること
* 「まわりを巻き込むパワー」があること
* まわりの人を「癒す力」があること
* 「自己完結」していること
* 「ツキの波」に乗っていること


 反対に、「ライフワークと思いやすいが、必ずしもそうではないこと」のでよくあるものは、次のようなものだそうです。

* 人を助けること
* 強制されたボランティアワーク
* 衝動行動
* 義務や役割でする仕事
* 使命感による行動
* 社会から評価される能力を使う仕事

 そして、「ライフワーク」を自分の仕事にするコツとして、「大好きなものを絞り込んでしまうのではなく、少し視点を動かして応用してみる」ということを述べています。

 たとえば、「ギターが大好き」な人だったら、

・「ギター奏者になる」

 だけでなく

・「ギターを教える人になる」
・「ギターを扱う楽器屋さんになる」
・スタジオやCD店経営
・「ギターのよさを伝えて歩く人になる→講演や執筆」

 といったように幅を広げて応用してみるということです。

 
 「ローフード」の本を出版して、本が少しずつ売れ始めたころ「お教室はやらないんですか?」という声がいくつもかかって、そのころはとても戸惑いを感じていました。
 というのは、この後「ローフードのことを伝えていくのには、お教室をやるしか選択肢がないのかな?」 それ以外のチョイスが自分にも見えなかったからです。
 
 しかし、「自費出版で『ビジー・ピープル』の翻訳を出版しよう」と決めて作業を始めてから、突然、落ち着きました。
 いや、「落ち着いた」という自覚すらなくなってしまうぐらい、我がなくなってしまうのです。ピンクの本の139ページに書いたような

「夢中になれるほど好きな仕事を持ちたい、とかいう台詞を聞くけど、好きかどうか、なんて考える余裕もなかった」

「ただ、『好きだ』と思う代わりにいえるのは、ひたすら『勝手に手が動いていた』ってことだ。」

 という感覚を、再び味わいました。

 正直「静かなワクワクと感謝」なんて気持も味わいませんでしたが(笑)、気持ちがよかったのは事実です。
 かっこいいことばですが、自分が感じた感覚をもっとも正確に書き表すなら、そこで感じたのは、「完全なる静けさ」という感覚でした。

 ローフードの学校には「ここに行きたい!」という学校をなかなか見つけられない自分が、30万円もするこれはぽんと買う予定です。
 これを使って何をしようかなーと考えると、次々とアイディアがわいてきます。

 30万円使うなら、シェフのもとで研鑽したいとか、いい包丁が欲しいとか、よい食材を仕入れる旅に出たいと思う人も多いでしょう。 
 ここらあたりに「完全なる自己肯定」のヒント、つまり、あなたの特性を見つめる作業がありそうです。

 ローフードとは、「あなたは何者ですか?」と聞いてくる料理です。


 「ローフード」+「あなたの個性」=クリエイション。
 ローフードを通じたライフワークは無限に作り出せるかもしれません。

(後半部、別投稿で詳しく書いた方がいいと思ったので、少し削除加筆しました)

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posted by 石塚とも at 22:43| Comment(5) | ちょっと哲学的なこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月26日

「ローフードを使ってビジネスできたらいいなあ」とちょっとでも考えたことがある人へ

 この数年間で私が通ってきた道は、「ビジネス・サクセス」なんてもんじゃなくて、「ちゃんと一人前の自立」という当たり前のことだと思うのですが、そのなかで経験したことを、ちょっと皆さんにシェアしたいと思います。

 今までまったく誤解していたことなのですが、

 ビジネスというのは、癒しの作業だと、今の私は発見しています。

 どうしてそう思うようになったかというと、ビジネスというのは、徹底的な自己肯定からしか始まらないからです。

 だって、ビジネス・シーンで、自分で自分にネガティブな言葉を使っていたら、誰が助けてくれますか? 信用を失って、人が離れていくだけです。

 あ、その前に。

 皆さんは、「ビジネス」の定義って何だと思いますか?

「お金もうけ」?
(それにしても、この言葉って、本当に雲をつかむように抽象的だな)

 私が今考えているビジネスの定義は、

「お金を媒介した、信用構築のスポーツ」

 です。

 最後にどうして「スポーツ」としたかというと(そして、「ゲーム」としなかったかというと)

 それは、
「日頃のこつこつ鍛練がモノをいう」
「スイート・スポットにボールが当たらないと、絶対に飛ばない」
「でも一度自転車の乗り方を覚えるようにスイート・スポットへの当て方を身につければ、何度でも飛ばせる」
 というところが似ているなあ、と思っているからです。

「ゲーム」というと言葉を使うと
「現実に即していない(バーチャル世界のもの)」
 という悪いイメージを持たれがちなので使いませんでしたが、

「その世界では『お金を使って取引する』というルールが決まっていて、どんなにいい人であっても、「お金を止めちゃったら」信用を失う(どんなに身体能力があっても、サッカーで手を使ったらルール違反なのと同じ)」
「でもやっぱりゲームなので、そこで信用を失っても人生の信用すべてを失ったと思う必要はない」

 あたりが「ゲーム」的ともいえます。

 で、「ビジネスは自己肯定からしか始まらない」に戻って。

 それを、私は一冊本を書くなかで学びました。

 本を書く前、私は「恥」を感じていることがたくさんありました。

 いちばん「恥」を感じていたことは、自分が40を超えて、「何ごとも成してない」って思っていたことです。

 でも、本を書き終えて、私の自己イメージは、「40すぎのこの時を、私は、妥協せずに待っていた」に変わりました。

 他にも

「ネットのデイティング・サイトで見かけたふまじめ男に写真だけで一目ぼれしちゃっただめんず女」

 が、

「『そのためになら、どんなことをしてもいい』と思える、人生すべてを賭けられる出会いをした幸せな女」

 に変わり、

「どんなことをいわれても『でもそれはここがヘン』と反論するくせに行動しない、〈何もできない完璧主義者〉(アダルトチルドレンはときとしてこう呼ばれる)」

 が、

「納得できないことには絶対に首を縦に振らない、『科学的真実とは自分の頭で考えることだ』という価値観とともに生きる女」

 に変わりました。

 神の愛は無限信用(残高ゼロにならない)ですが、人の社会は有限信用(残高ゼロがある)です。
 その厳しさの中で信用構築しようとしたとき、初めて、自分を覆っていたガラクタ(自分に対する恥、ネガティブネス)を脱ぎ捨てて、信用を得るために、「新しい自己イメージのことば」という、おろしたてのビジネス・スーツを着るのです。

 ローフード生活を続けていくと(これが「穀物とお金」シリーズの結論なのでネタばれなんですが)、お金の「価値保存性」と「投機性」という点にあまり興味がなくなり、「流動性」という点に興味が強くなる、と、私は感じています。
 たぶん、「価値保存できる」「価値が増える」ものはあまり食べなくなって、ひたすら「流動する」ものばっかり食べてるからだと思います。
 そういうものを「おいしい」と思うんだから、お金だって「流動するお金」がおいしい。

 とすると、現代の貨幣は、利息をつけない限り流動しないことが問題だといわれてきて、だからその弊害を防いで流動させるために、ミヒャエル・エンデたちが「地域通貨」の必要性を訴えたのだけれど、ローなパラダイムでお金を動かすなら、わざわざ別の通貨造らなくても(作るのにはまたコストがかかる)、現行の通貨のまま、流動性を高められるということになります。

 これって、「食糧事情を救う」云々の前に、もっと世界にインパクト与えないか?

 たぶん、「ローを仕事にできないかなー」って考えている人たちは、今、まだ、自分が愛せる仕事に出会えなくて、ローがそのきっかけになったらと考えている人が多いだろうと想像します。

 でも、タイトルを、「ローフードを使ったビジネス」としてみたけど、考えたら、別にローフードを直接扱う必要はないですね。
 扱うものは何でもいい。ポイントは、お金は、扱いによって「加熱加工(価値保存)的なお金」と「ロー的(価値流動)的お金」という二面性がある。そのお金の流動性に魅力を感じる人がどれだけ増えるか。

 「流動性」が高いお金は、世界をよりよいエネルギーの架け橋としてめぐりめぐっていきます。

 今までは、「お金の心臓」といえば、銀行だったんですけど(ポンプとなって動かす)、お金を社会のエネルギーをつなぐ「さらさら血液」として動かすのは、実はローフーディストなのかもしれないです。
 っていうか、心臓としての銀行は、不整脈起こしてすぐ詰まる(笑)。
 ローフーディストが媒介するお金は、「血液」というより「リンパ液」かもしれないです。どこにもコントロール・センターはないの。それなのに、、示しあわせた「たくらみ」のように、「流れたほうが気持ちがいい」と考える無数の力が集まって、誰かが号令をかけたわけでもないのに、動いていく。

 そんなふうになったらすごいと思いませんか?






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posted by 石塚とも at 00:00| Comment(7) | ちょっと哲学的なこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月23日

余裕

 がねーしゃ(旧名X君)と、映画『天使と悪魔』を見に行きました。

 前作『ダ・ヴィンチ・コード』では、本はあまりに内容が濃すぎて映画では説明不足で「ダイジェスト」って感じになっちゃってましたが、今回もきっとそうなんだろうけど(今回は原作を読んでいる余裕はとてもなかった)、今回の方がアクションが多いので、映画としては面白かった。ラングドン教授はだんだんインディアナ・ジョーンズ博士みたいになってきたな〜(女にだらしなくないところが21世紀風というかロン・ハワード風ですけどね)

 1ヶ月に1回、映画館で映画を見るという行為は、私にとっては5年ぶりです。ここのところ、平日の昼間試写室に映画を見に行っている時間が全然とれなくなってしまい、話題作は特に劇場で見ることになります(『天使と悪魔』のプレス試写は封切り直前の5月9日に行われただけでした)。
 
 私、なんで映画評論家になったのかな? あのときも背中を押されたようにするする〜っとひとつも苦労することなく「こんなん書けちゃいました」みたいな感じで評論を次々書き続けて、1回だけコンクールに応募して、1回で金賞をとって、その原稿もって営業いってさっとなれた。週刊金曜日での私の映画評の評判はいつも良かった(今でもよい)。
 でも、同時に、それまで家族から禁じられていた(自分で自分に禁じていたのかもしれない)「文化への渇望感」みたいのが一気にどーっとあふれ出してしまったというのも事実の一つで、浴びるほどに見ていたい、だから平日の昼間に生活投げうっても見たい、みたいな気持ちもあったのです。そういう、デスパレートな気持ちで試写室に通い続けた5年間だったようにも思います。

 久しぶりに映画館に行って、お金を払うというごく普通のことをして、普通の娯楽活動(というのかな)に対して、自分がずいぶん余裕をもってできるようになっていることに気づきました。

 あと、最近、ロマンス自体にもデスパレートじゃないので、会っててもこちらも精神的にも余裕があります。
 
 映画の後食事したときに、がねーしゃいわく、

「女の子のデートではお金を払うのが嫌い、絶対やらない」

 といいます。

 理由は、

「お金を払うと女の子に逆にプレッシャーかけているような気がしていや」

 なんだそうです。

 それに対して私の意見は、

「生活が自立していなかったときのほうが、お金を払ってもらうのが不安があって、無理に割り勘にしていた。
 そういうときは、相手の財布の具合も気になったから。
 今のほうが、自分が自立していると相手も自立しているのが当然、って思えるから、クラシック・スタイルでお金払ってもらうのが楽しい」

 結局割りかんにしましたけど。

 だって、「相手がきれいならきれいなほど払わない」っていうから〜(←ひっかかってる?)

 ゼストの「コブサラダ、チキンと卵とベーコンとブルーチーズ抜き、トマトと紫玉ねぎとオリーブとアボカド増量、マヨネーズの代わりにイタリアンドレッシング」は私の大好きなメニューなので、ま、いいですけど。(今度ドレッシングなしでもいいかも)

 映画は、2時間の映画が、「いつ終わるの? いつ終わるの?」って感じでかなり緊張感があって、期待通りでした。
(お約束で、ヴァチカンのセキュリティ・モニターでさえ、SONY ってマークがわざと映るように撮るのはやめてほしいなあコロンビア映画、とは思うのですが)

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posted by 石塚とも at 01:37| Comment(2) | ちょっと哲学的なこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月20日

絶対合わないジグゾー・パズル

 5月15日のメディRの講座のときにもちょっとお話したのですが、

(感想を書いてくださったみなさん、ありがとうございました。

静歌さん、
http://www.crystarium.com/dreamspell/2009/05/post_330.html

ひよこさん(私まだ4回しか講演してないのに参加4回目って、、、)
http://hiyokonorawfood.blogspot.com/search/label/%E7%9F%B3%E3%81%A8%E3%82%82%E3%81%95%E3%82%93%E8%AC%9B%E6%BC%94%E4%BC%9A

kiyomiさん、
http://rosa-magenta.blog.so-net.ne.jp/2009-05-18  )


 人間とゴリラというのは消化器官の構造がほとんど同じなのですが、ちょっとだけ違うところがあります。

 それは、ゴリラは胃の中にセルロース分解酵素を持っていて、人間は持っていないということ。

 この小さな違いが、実は、とっても大きな違いだったりします。

 「セルロース」というのは、植物の繊維や細胞壁を作っている固い部分で、植物の成分の実に1/3を占めます。

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%B9

 「細胞壁」って、中学校の時に顕微鏡で見たの、覚えてますか?
 細胞壁というのは、ひとつひとつの細胞の外側を覆っている、まさに「壁」のような固い物質です。この内側でもう一枚「細胞膜」が囲んでいて、膜の中に栄養がいっぱいはいっています。
 細胞膜は動物、植物両方にありますが、細胞壁は、動物にはなくて、植物にだけあります。
 植物には骨がないので、身体を支えるために、壁で覆われた固い細胞を一つ一つ積み重ねる構造になっていて、それで固いのです。(セロリとか手でぱりっと折るとよくわかりますよね)。

 で、セルロースというのは炭水化物でできているのですが、これを分解する酵素をセルローゼといいます(そのまんまや)。セルローゼはセルロースを分解して、糖にできます。
 ゴリラだけでなく、馬や羊が草やわらばっかり食べてエネルギー不足にならないのは、草やわらを糖に変えることができるんですね。私たちは草を低エネルギーだと思っていますが、それは私たちにエネルギーを取り入れる道具がない、というだけの話なんですね。
 ゴリラや馬や羊にとっては、草は高エネルギー食品なんです。

 ……ちっちゃな違いのようで、大きな違いなのです。やっぱり。

 ひとつは、人間は草や果物だけだとエネルギー不足になってしまうこと。もう一つは、細胞をくるんでいる壁が消化分解できないので、よ〜〜〜く噛んで細胞壁を壊さないと、中にある物質(水分、ビタミン、ミネラル、果物の糖質)を取り出せないこと。

 だったらよく噛めよって話になるんですが、ヴィクトリア・ブーテンコさんのGreen for Life を読んだ方はご存じかと思いますが、人間の「噛む」機能(噛むことを別名「第一次消化」といいます)は、使いものにならないぐらい退化しているんですね。(アウストラロピテクスと現代人の咀嚼能力の違いがどこかに書いてあったと思うんだけど見つけられない…)

 自然に帰りたいけど帰れない。
 自然に帰ろうと思っても、自然の状態からもう生かしてもらうことはできない。

 あらまー、なんて絶望的な状況!
 人間がセルロース分解酵素を失ったときというのが、人間がエデンの園を追い出されたとき、といえるのかもしれません。


 だから、なんとかして必要な栄養をとらないといけないのですが、そこで必ず動物がやらないことをやらないと、栄養がとれなくなってしまった。
・野菜を火食する(セルロースは自然界でもっとも破壊しずらい物質なのですが、加熱することで壊れて中の栄養をとりだすことができます)
・穀物を火食する(セルロースの代わりに、人間が分解しやすいグルコース(ぶどう糖)をとることができます。)
・ジューサーとかミキサーとか、あんまり「自然」じゃない、むしろ文明の最先端みたいな器械を使う。
・タネ、ナッツ、穀物の摂取を増やして、エネルギー摂取を増やす。
・消化の負担にならない程度の動物性たんぱく質をとる(人間のタンパク質消化酵素というのは、類人猿から比べるとオールマイティといえるぐらい、能力が強いそうです。やっぱり「タンパク質こそ文明」なのかもしれません)

 どれもメリットがありますが、同時に欠点もあり、「これなら完璧」ということができません。

 だって自然から見放されてるんだから(笑)。善後策なんだから。

 でもね、つまり、人間のダイエット(食餌)というのは、絶対に完璧におすすめできるものはないんだ、っていうことがわかっていると、ほっとできる。あるいは冷静になれる。

「このジグゾー・パズルは合わないんだ。そういうものなんだ」ってね。

 だからね、7〜8割ぐらい水分と酵素の多い野菜や果物にできたら、あとは体調とお好みで何でもいいんじゃないか、って気がします。

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2009年05月13日

グリーン・スムージーとグリーン・レクイエム

 私が「小説家になりたいっ!」って思ったのは5歳のとき(『若草物語』にやられた)。そして、「だめだあ〜、私にはできない」って挫折したのが14歳のときです。

 「うわー、天才ってこういうこというんだ」って思いました。参りました。平伏しました。それぐらい、私より三つ年上の女子高校生SF作家、新井素子さんの登場は衝撃的なものでした。
 NHKのFMで放送していたラジオドラマをたまたま聴いてからどんどん引き込まれ、NHKに電話して原作(『大きな壁の中の外』)を教えてもらいました。書店にどこにもおいていなくって、神楽坂の小さな出版社奇想天外社に買いに行ったのはなつかしい思い出です。(その本は結局卒業した高校の図書館に寄付してしまい、高校の卒業アルバムにはその本を持って映っています。今とあまり変わらないことをやっていました^^;)

 彼女の2冊目の書籍、コバルト文庫から出た『いつか猫になる日まで』はたいして感心しませんでしたが、3冊目に出た『グリーン・レクイエム』にはやられました。完全、もう、木っ端みじん。宇宙船が座礁したために地球に取り残されてしまった植物型の生命体が、彼女を救おうとした科学者の手で地球人型に作り変えられ、その自分の生い立ちをしらない少女が地球人の男と恋に落ちてしまう、という、ストーリーは、大きなスケールとロマンスが同居していて、本当に夢中になってしまいました。

 この植物型生命体(今は人間の姿)の少女、明日香には、危険な力があるんですね。彼女はもともと、「外は植物だが、中身には自分の意思があった」わけです。この彼女が、20分以上地球の植物の近くにいると、その植物も意思を持ち始めてしまうんですね。そしてこの植物がさらに隣りの植物に……と、意思が伝染していってしまうんです。
 意思を持ち始めた植物は、人間に対して敵対の意思をむき出しにするようになるんです。「あんたらは、なんでそんなに野蛮なんだ」「何も生産できないくせに、逃げられない我々をとって食べるのか」と。

 だから明日香はすごく危険な存在なんです。でも、明日香が自分の意思で男性と恋におち(たつひこ、だったかな?相手が)彼と外に出てしまったために、地球は大変なことになる……。座礁した彼女たちを助けに来るはずの宇宙船はまだこない……。

 こんなストーリーです。

 green for life を読んで(2/3ぐらい読んだ)すっかりプラシーボになっているスムージーのご利益効果に説得されているせいか、読めば読むほど、そして飲めば飲むほど『グリーン・レクイエム』のシーンが思い浮かびます。

 新井素子さんは「ルパン三世みたいな小説が書きたかった」っていって小説家になるんですね。マンガなんて小説より一段下だと思っていた文学界をこの一言は震撼させるんですけど、そのようにビジュアルから入ってきた新井さんの傑作『グリーン・レクイエム』は執筆後30年(!)たった今も映像化されていません。「明日香たち植物一族の緑色の髪の毛」「髪の毛が意思によって動く」そして、「植物が意思を持つ」というシーンが映像不可能なんだと思います。

 でも、グリーン、身体に入れると逆に感じちゃうのです。「ああ、植物というのは、とくにグリーンというのは意思があるんじゃないか」と。
 Green for Life によると、クロロフィル(葉緑素)と、ヘム(血液の赤色ヘモグロビンを作る)は、きわめて構造が似ているそうです。緑の血といえば、冷血人間妖怪人間ベムのイメージですが、どうもそうじゃないらしい。
 
 『グリーン・レクイエム』の中では、植物が意思を持って刈られることを拒否したりし始めるんですけど、グリーン・スムージーを飲む世界では逆にグリーンが人間の身体の中に入ってきて人間を植物化し始めます。
 でもそれはSF小説の中に描かれたような恐れるべき世界ではなく、動物たる人間が植物にサレンダー(=白旗をあげて決定を明け渡すこと)し、植物に意思をもたせてやることで、人間をまったく別の文明に連れて行こうとしている。

 完全なつれづれごとですが、そんなふうに考えると面白いです。

 今日、果物とグリーンの比率が5:5のグリーン・スムージーを1。5リットルぐらい飲んで、「あ! 変わった!」っていう感じを味わってから、ますますそんなふうに思っています。


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2009年05月10日

「タンパク質こそ、文明そのものである」(!)

 4月18日の松田麻美子先生のセミナーは、全部記憶して言いふらして歩きたいぐらい興味深いお話がいっぱいだったんですが、なかでもこの挑発的な言葉が印象に残りました。松田先生がおっしゃったんじゃありませんよ! これを言ったのは、20世紀初頭のドイツの栄養学者、マックス・ルブナーという人です。ちなみにこの人が三大熱量の法則、タンパク質・脂肪・炭水化物=4・9・4カロリー、と規定しました。

 彼の前に近代栄養学の基礎を作ったのはカール・ヴォイトという人で(「栄養学の父」と呼ばれている)、彼は1日のたんぱく質の必要量を52グラム、と規定しました。これは現代の厚労省の規定ともかなり近いです(某有名ハンバーガーチェーンの一番小さなハンバーガーにもタンパク質40グラム含まれているそうですから、現代の食事で不足を心配するのはナンセンスなのです)。

 そして、1900年代初頭にはアメリカで若い兵隊を実験台にして身体能力の高さを問う実験が行われ、「高タンパクより低タンパクのほうが、身体能力は高い」(読み間違えないでくださいね、低たんぱくのほうが結果がいいんですよ)ということがわかっていたそうです。(と書いておいて自分が書き間違えた、訂正しました)

 なのに、なぜかそういう話は消えちゃった。

 で、ルブナーさんはどうしてそう思ったかわからないんですが、「タンパク質こそ文明そのものである」と断言したんです。そして、タンパク質の必要量を1日52グラムから120グラムに上げ、植物タンパクから動物性タンパク質に置き換え可(そちらの方が質がいい)としました。

 私が興味があるのは、どうしてルブナーさんはそんなふうに思ったか、ってことです。

 「ルブナー」のスペルがわからないので日本語で検索したら、2ちゃんねるの菜食主義スレッドが出てきちゃって、そこの書き込みによるとルブナーさんは「そうじゃないと戦争に負ける」っていったそうです。

 当時はビタミンの機能がやっと研究され始めた頃でもあり、たとえば脚気はビタミンB1不足から起こる、という仮説が出始めたものの、定説化してはいませんでした。日本では、この頃、ドイツ帰りの森林太郎という軍医が「脚気は感染症である、脚気を防ぐために兵隊には白米で栄養増強するのがよい」っていって、日露戦争では戦死者より多い病死者を出してしまったそうです。(鶴見隆史先生の講演会で聞いた。そして先生は、「森林太郎ってその後軍隊をやめて小説家になるんですよ。森鴎外っていう名前の」といって、場内が「ほお〜」っとなった)

 1900年、つまり20世紀初頭というのは、世界中が帝国主義、植民地主義で「支配するか、されるか」の緊張に巻き込まれていった頃です。富国強兵です。この頃の栄養学はすべて「国力をあげるための栄養とは何か?」が考えられていたんじゃないかと思います。個人の福利厚生のための栄養学じゃなかったんです。

 そして、「文明じゃない」ということは「列強の支配を受けても仕方がない」ということを意味し、そのために日本人も植民地化されないようにとちょんまげを切って牛鍋を食べて鹿鳴館でダンスを踊って頑張ったわけです。

 その文明を作るものとは何か? 
 工業は鉄、エネルギーは石炭、そして栄養学は「タンパク質」だと考えた。そんなふうに当てはめていくと合点がいきます。

 鉄があれば。石炭があれば。タンパク質があれば。「それさえあれば強くなれる」物質がこの頃の欧米列強は欲しかったんじゃなかったと思う。
 この考え方は、「帝国主義」がいつのまにか「アメリカの民主主義」にお題目が代わった後でも引き継がれていきます。
 帝国主義はエゴ丸出しだったのである意味まだ始末がよかった。民主主義になってから、「文明化されていない国を教化する」という名目でタンパク質の布教が始まってしまった。
 「ベジタリアン」を説明したときに、一般の人が「タンパク質不足になるんじゃないの?」と心配するのは、「文明不足になるんじゃないの?」の不安だと考えると、すごく納得がいきます。

 グスコー出版で現在翻訳作業中の「チャイナ・スタディー」の著者、コリン・キャンベル博士は、



 酪農家の家の息子さんだったそうです。彼は、乳牛と羊を早く成長させるために、コーネル大学で研究し、博士号を取得します(このあたりは上記のアマゾンのレビューに詳しいので読んでください)。
 「ローフードでは生のピーナッツを食べてはいけない」というのを聞いたことがある人も多いと思いますが、生ピーナッツにつく発ガン性のかび・アフラトキシンを発見したのがキャンベルさんです。

 この発見をしたのは、彼が、フィリピンで栄養不足の子どもたちのケアをするプログラムに参加したことからです。1960年代、マルコス政権のころです。この頃はまだ「栄養不足=タンパク質不足」と考えられていた頃です。このときに彼はフィリピンの小児ガンの子どもたちを見て愕然とします。全員、富裕層の子だったからです。

 動物性タンパク質を効率的に生産したいために栄養学の道を進んだ彼が、人生の大きなターニングポイントとなったこの現実に直面した後、彼は、たとえアフラトキシンであっても、動物性タンパク質を摂取しない限り発ガン率は極めて低いことを発見します。

 つまり、彼の発見は、「発ガン物質がガンを作るのではなく」「発ガン物質が」「動物性タンパク質の摂取」という環境下に置かれたとき、「ガンが発生する」というものだったのです。

 パプア・ニューギニアの喫煙率は極めて高いそうです。大家族で暮らしていますので、子供、女性の受動喫煙も濃度が濃い。ところが、パプア・ニューギニアでは肺ガンの発生率は極めて低いのです。そして、彼らは動物性タンパク質をほとんど食べていないそうです。

 
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posted by 石塚とも at 20:48| Comment(7) | ちょっと哲学的なこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月04日

自分の欲望を口に出すということ


 前にも書いた気がしますが、私がローフード的にあらまほしいイメージの一つは、
「近所のレストランにランチを食べに行ったときに、ごく普通に定食メニューが『食前果物→大サラダ→メイン1品(ヴィーガン)→別料金でいいからローデザート』という構成になっている」
 というものです。

 つまり、私(買い手)が何も言わなくても、店(売り手)がこちらのニーズをわかっていてくれる状態になったら、ラクでいいなー、と思っているわけです。
 もしもレストランでなくても、売り手であれば、この状態は常に目指したいものです。昔「包丁人味平」という漫画に、お客さんが店に入ってきたとたんその人の服装(職業)顔色(健康具合)なまり(出身)などから味の好みをひと眼で見抜いて一杯一杯味付けを変えるラーメン屋の話が出てきましたが、こうあればお客様にも感謝され、経済的にも成功するでしょう。

 ……と、売り手としての心構えを書いてみたし、最近まではいちいち自分の希望を伝えないといけない外食に疲れて、「金を払う側なのにこんなのってないんじゃない?」と思っていたのですが、最近、それって違うんじゃないか? と思う始める今日この頃です。

 というのは、お客は、「お客」というより対等な「取引相手」として、自分の希望を常に伝えていくのが仕事じゃないかと思うようになったのです。

 商取引のシーンであってもなくても、家族であっても恋人であっても職場であっても、自分の欲望は自分でわかり、自分で言葉にして相手に伝えないといけません。それが自分が何者であるかということに対して責任をとることなのだと思います。
 もちろん他の方法で伝えることもできるでしょう。「そぶり」でもできるかもしれないし、人によっては「反対のことをいう」ことで伝えている場合もあります(よくある気がします)
 そういうほうがドラマになりやすかったりもします。

 でも、自分の欲望を自分で言語化して相手に伝え、相手にそのとおりのことをしてもらい、お礼をいって終わり、というのは、それに比べたら地味な(簡単に交渉が終わるから)交流です。でもそれが一番「平和」ということなんじゃないかなと思います。

 人が自分の欲望を伝えるときに「そぶり」で伝えてしまったり、「反対のことをいって」伝えてしまうのは、それがその人の「馴染んだやり方」だからです。ホ・オポノポノでいう、「過去のデータ」とはそのことをいうのでしょう。ものかき的にいえば、「その人の古い物語」にのっとって伝えてしまっているということです。

 でもね、この「過去の古い物語」を捨てて、自分の欲望をそのままの形で伝えてかなえてもらう、という、地味なコミュニケーションの方式には、とても大きなご褒美があるのです。

 それは、相手から、「あなたの欲望をかなえさせてくれてありがとう」という一言がもらえる、ということです。
 相手が、あなたに愛を与える存在になるチャンスは、あなたがあなたの欲望を知り、伝えることで作りだされるのです。

 レストランに入るたびに、またはローのことを知らない人と食事をするたびに、毎回毎回「フルーツは先に食べるの、次にサラダを食べるの」といい続けるのは、自分の心の中をのぞきこみ、自分の欲望を知り、伝える修行のようです。
 単調で地味な修行です。でもこの修行を繰り返すことで、「自分は何が食べたいのか」だけでなく、すべての領域で、「自分は何を求めているのか」「自分は何をしたいのか」という欲望を探る作業がしやすくなることに気が付きます。
 「自分の欲望を探る」というのは筋肉運動なのです。毎日繰り返して鍛えるものなのです。探るだけでなく、それを口に出すのも筋肉運動です。

 ローフードを食べるということは、自分の食べたいものに主体的な選択をするということです。野生の動物なら選択なんてしないで自然にやっていることなのに、人間は「主体と責任」というもっとも人間らしいコンセプトでもってローを食べ始めるということがおもしろいなあといつも思います。でも、自分の食べる行為に主体性をもち、食べる行為に責任が持てるなら、そしてそのことを気持ちがいいことだと思えるなら、他の行為に主体性を持ち、責任を持つことも楽になっていくでしょう。

 おいしい主体性と責任。それがローフードです。

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posted by 石塚とも at 22:37| Comment(6) | ちょっと哲学的なこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月08日

「自分が主役になれる」食べものだから

 昨年の6月にこのブログを開設したとき、「ブログ村」のローフード・カテゴリの登録は20かそこらでした(「ローフード」のカテゴリがあっただけでも驚きですが。ブログ村はそこらへん、対応きめ細かいです)

 それが、1年もたたないうちに、登録は50以上に増えました。毎日1つずつ増えるような日もありましたね。
 
 しかも、全部どれ読んでも面白いですよね(だから全部読んでしまう(爆))

 どうしてだろう?
 
 それは、ローフードというのは、「自分が主役になれる」食べものだ
からだと思うんですね。

 ローフードのことを書き始めると、「自分が」何を食べた、おなかがどのように動いた、と、書くことになりますね。
 ローフードのことを書いているようでいて、実は「自分」のことを書いているんですね。
 こんなに、自分の「はらわた」に注目した日々が、かつて人生の中であったでしょうか? (笑)
 それは当然、「はらわた」のさらに奥に眠っていた「ほんとうの自分の姿」を発見することにつながるでしょう。
 

 自分のことを書いているのですから、内容は、他人との比較や競合にはなりえなくなります。
「周囲」という雑念から知らないうちに焦点がそれていきます。
 ブログ村の「ローフード」カテゴリがみなマイペースで、競合もせず、まさに「村」としてコミュニティ化しているのは、そのせいでしょう。

 ひとが自分を取り戻していくドラマを読むのは、何度読んでも素晴らしいことです。
 そのドラマこそが「いのち」といえます。「いのち」の力に触れたいから、今日も皆さんのブログを読むのです(笑)。


 最近、当ブログへのアクセスが1日1000を超えるようになって(トップページへの訪問者数。全ページビューだと4000ぐらいあります)。  人数が増えるごとに、こんなにたくさんの人に、私はいったい何を有益な情報として提供できるのかなあ? と、とまどう気持ちも起こってきます。

 そのなかで、私が目指していることは、「自分で自分を知っていることの専門家」であり、ローフードはそれを助けてくれる重要なツール、としての位置づけなのだ、とわかりました。
 そして、他の人にも、「あなたがあなたを知るための専門家」になるためのお手伝いならできるかもしれない、と思うようになりました。

 私にとって、「健康」とは、「自分が見えていること」なんです。なぜなら、それが一番、「自分に責任がとれる」状態だからです。健康=責任能力といってもいいんじゃないか、と思っています。本の前書きの中で、スザンナは、「健康のためには人生に責任をとることが大切」と書いていましたが、逆も真なんじゃないかと思います。

 そのために私がする「特別なこと」などは何もなく、声を大にして、「ローフードを食べましょう!」という必要もなく(笑)、ただ、「自分が自分を知ろうとする」ことと「自分のなかの『いのち』を発見しようとすること」がイコールであれば、読む人の『いのち』も勝手に反応してそれをやり始めるだろう、と。

 あなたを(人を)傷つけることは、あなたの中の、あなたが気づいていない部分から発せられます。たとえば、あなたの腸の中で、あんまり固まりすぎてあることにその存在に気がつかなくなっちゃった(笑)老廃物、とかね。
 でもあなたのはらわたがきれいになったら、その扉をあけ、その内側にあるものをのぞきこむのは簡単です。
 ローフードというのは、それを助けてくれる食べものなのだと思います。

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posted by 石塚とも at 13:32| Comment(3) | ちょっと哲学的なこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月27日

ロー・ラヴ

「ローフード」のことを「リビング・フード」といったりもして、「リビング」というのはすでに「生きている」という意味が日本語に組み込まれているからとてもわかりやすい。「ロー」というのは、日本語だと「低いlow」なんだか「法律law」なんだか「生raw」なんだかわかりずらい。

 でも、「ラヴ」を語るときには、「raw」というのはなかなか素敵な語だと思うのです。raw というのは「生」という語に訳されますが、もっと包括的にいえば「未加工の」という意味だからです。未加工の愛。

 昔から、とにかく男性を愛することが苦手で苦手で。
 愛することも苦手なら、愛されることも苦手。
 昔、友人の二次会の会場で、声をかけてきた男性が、「私のうしろにいる女性」に声をかけたのだと思って後ろを向いてしまい、一緒にいた友人に「あまりに痛々しい」と泣かれたことがあるぐらいです。

 とりあえず、「普通に1人の男性を愛して、一人の男性と結婚して、一人の男性とのあいだに子をもうけて一つの場所に暮らす」愛のスタイルに対する敵意(?)みたいなものがあって、かといって、敵意で生きてる女は、奔放に生きても愛仕方知らないからやっぱり傷つくんですね(こういう女はそもそももてません)。かといって、子供生みたい欲求も起きないし、女としてちゃんと生きられない自分に劣等感があってその劣等感がまた自分を傷つけるし、もうめちゃめちゃでした。

 しかし、ローフードを食べ始めて少しずつ思うようになったのは、私が抵抗を感じていたのは、「愛」ではなく「加工された愛」しか愛しかたはないのか? という閉塞感でした。

 人の心はみな違います。でも、同じ工場で作られた同じものを食べていたら、みんな同じ心になってしまわないのかな?
 そこで「個性」を保ち続けることは、加工された食べものを消化するのと同じように、みんなが当たり前のように感じているけど大変なことじゃないのかな? 
 そういう疑問はあります。

 ローフードを食べたら、「自分の愛の形」を、それぞれに、もっと堂々と心のエネルギーでもって行うことができるんじゃないかしら?
 そんなふうに思いました。


 1960年代、、アメリカでは、「同じ形にそろった郊外の家」は、理想郷とさえいわれていました。郊外=サバーバンと、理想郷=ユートピアを合わせて、サバービアという言葉があるぐらいです。
 でも、サバーピアの没個性社会で個性がいかに排斥されるかを描いた映画には、ティム・バートン監督の傑作『シザーハンズ(あのお菓子の家みたいな同じ形の家を覚えていますか?)』そこで壊れていく家族を描いた映画には、1月に公開されたばかりでレオナルド・ディカプリオとケイト・ウィンスレットが主演した『レボリューショナリー・ロード』、その崩壊を描いたドキュメンタリーにその名もずばり『ジ・エンド・オブ・サバービア』があります。

 ローフード(未加工の食べもの)を食べたことは、私に、自分のロー・ラヴを認めさせる機会にもなったと思うのです。

 先週末、2年間疎遠になっていたX君とスキーを楽しんで、帰りの新幹線に乗った時に、彼に「今、つきあっている人はいるの?」と聞かれました。
 男性にそういうこと訊かれたら、「ふふふ」と笑って答えないのが「愛を持続する」つまり、愛の加工法なのだそうです。でも、そのとき私は、初めて異性に向かって、自分のラヴ・スタイルとでも呼ぶべきものについて話しました。

 2年前、たしかにX君のことをすごく素敵だと思ったけど、私は当時レプティリアンにどうしようもなく惚れてしまっていたため、X君を「とうざしのぎ」の相手にするのは申し訳なくて、誘いにのりきれなかった、ということ。
 X君とメールしているときはとても楽しかったのだけど、すごく好感をもってから写真を見てしまって、「太っている」のがどうしてもタイプでなくて、でも、「太っているのが嫌い」と申し訳なくてどうしてもいえなかったこと。
 今は、レプティリアンじゃなくて、縁があって定期的にデートしている男性がいること。でも、レプにも愛されたいし、X君といっしょにいたらすごく楽しく感じるということ。

 X君は全部聞いて、最後に、「太っているから嫌いっていってくれたらよかったのに。そしたら、僕、この2年間で努力してやせたかもよ」といいました。(彼はこの数年で15キロ太っちゃったんだそうです)。

 それから、「今でもレプのことが好きなの?」と聞きました。

 私はよく考えて、「うん、今でもレプに愛されたい。でも、レプが『1対1で付き合おう』といってきても、今の自分の生活を愛しているからそれは断ると思う」
 といいました。

 Dan へのメールにも書いたんだけど、霊的成長とは、「世界の(自分の)複雑さを受け入れること」だと私は思います。たとえば酵素というのは、3000種類もあるけど、どれもたったひとつの働きしかしません。それが複雑に絡み合って、世界の生命活動を支えています。プロセスフードの分子構造は単純ですが(たとえばショ糖とか)、ローフードの構造はとても入り組んでいます。

 今だったら別に結婚するのも悪くないなと思うのだけど、そう思ったらかえって今の愛の形に流されてきてしまった。それは自分がコントロールしたものではなく、ふと気が付いたらこういう形になっていた。

 ところで、「また一緒に遊ぼうね」と話し合って、一緒に見る映画まで決めていたのに、数日前から、突然X君からメールが来なくなりました。X君はすごい筆まめで、何があっても必ず1日でメールが来たのに、初めての経験でした。
(結局連絡違い、って後からわかったのですが)

 ロー・ラヴは防腐加工できない。
 ロー・ラブは、いつ消えてしまうかわからない、あるいはいつ死んでしまうかわからないリスクをいつも抱えている。
 ↓
 そう思って加工するのをやめてほっておくと、意外や意外、永遠に生き続けたりする。
 

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posted by 石塚とも at 22:32| Comment(30) | ちょっと哲学的なこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月24日

第三次性徴

 人は一般的に「第一次性徴」と「第二次性徴」があるといわれています。「第一次性徴」は生まれたときに赤ちゃんにそれぞれ別の生殖器がついていることで、「第二次性徴」は思春期になって身体がそれぞれ男らしく、女らしくなっていくことです。
 この「第二次性徴」を終えて、人は「成熟した」と一般的にはいわれます。

 しかし、ローフードを始めて二年以上たったまま、私は人間には「第三次性徴」というものがあるのではないかと思うようになりました。そして、この第三次性徴というのが人間のなかで一番大変で、これを迎えないまま終わってしまう人もいるのではないかと。

 その「第三次性徴」とは、自分のセクシャリティを受け入れ、自分のセクシャリティと仲良くしていく力を持つこと、ではないかと思っています。
 
 ローフードを始めると、この「第三次性徴」を迎えることがとてもスムーズになるのではないか、と、私は考えています。

 というのは、ローフードを食べると女性の場合ウエストがくびれ、二の腕の肉が落ちてくるのですけれど、それらは「自然に」起こることだからです。
 第二次性徴というのは、結構「異性の目」を意識する時期に起こります。もちろん身体の変化は自然に起こってくるのですが、それにともなて、お化粧したり、おかっぱでも気にしなかった髪をカールさせてみたくなってきます。それは悪いことではありませんが、「だれのために」身体が変わっていくかわからなくなってしまうことでもあると思うのです。
 また、男性の目を意識したことで変に自己嫌悪に陥ってしまうこともあると思うのです。「私って安い女なのかしら?」と。

 でも、ローフードを食べて起こる身体の変化は、「外部の目」とは関係ありません。自分が勝手に、(自分のために)セクシーになっていく、というのは、とてもストレスがかからないことだと、私は感じています。
 そして、その自然さがあるからこそ、異性から見て魅力的であり、なおかつ一緒にいて楽しかったり、かつほっとする存在になれるんじゃないかと思うのです。

 先日、スキーに行ってきました。一緒に行ったのは、ここ2年間ほど疎遠になっていた男性。
 
 学生の頃から今まで、私はずーっと、男性と一緒にスキーに行って、スキー場のクアハウスで一緒にジャグジーに入ってまったりする、というのにあこがれていました。

 そういう場所でべたべたして見ていてかたはらいたいカップルっていますよね。そうじゃなくて、すごくリラックスしていてでも楽しそうなカップルになれたらいいな、って、なぜかずっと思ってた。
 そして、なんとなくそれが出来た気がしました。
 彼は本当にユーモア感覚がすぐれた人で、彼のジョークでふたりでたくさん笑いました。それを見て、一緒に入った家族連れも、私たちのことを微笑ましそうに見ていました。

 しかも私は、一昨年ロサンゼルスのベニス・ビーチ(これぞカリフォルニア! みたいなところ)の水着屋で買った、とってもセクシーな水着を着ていたのでした。
 
 なんだかすごくうれしかった。

 身体と心のクリアリングが進んでいくと、多くの執着は手放されてきます。「これは夢だった」ということが、「へ? そんな夢持ってたっけ?」に変わってきます。
 でもときどき、こんなふうに、夢のまんまの形でかなってしまうことがあります。
 それは、天が私に必要だと思ってくれたことなのでしょう。

 一緒に行ってくれた X君は、ビリオネアになるか40になるまでは結婚しないと言っています。想像を絶する貧しいスラムがあちこちにある国から来たX君が「ビリオネアになる」と断言するのは、強い決意とエネルギーを感じます。話す内容は、マーケティングから株式投資に至るまで、刺激的で興味深く、勉強になります。

 「40になるかビリオネアになったら、君は僕のパーソナル・シェフかもしくはプロポーズする」なーんていってます。
 私、そのとき50ですけどいいですか?

 X君、夢をかなえてくれてありがとう。

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posted by 石塚とも at 22:32| Comment(4) | ちょっと哲学的なこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月11日

ローフードとレプティリアン

 一昨日投稿して消したエントリーです。お待たせいたしました(笑)

 で、ですね。これから書くことは、科学的根拠は一切ありません(笑)
 一種のファンタジーだと思ってください。
 これが嘘っぱちでもローフードのことは本当ですから信用落とさないでください(泣)
 それでも書きたいんです。


 「レプティリアン」というのは「爬虫類型宇宙人」のことで(「爬虫類」という意味の「レプタイル」と「エイリアン」を組み合わせた造語)。彼らは何千年も前に地球にやってきて、人間たちと交配し(だから人間のなかに彼らとの混血がいる)純粋な地球人を家畜化しようとしているのだそうです。
 ブッシュ親子とか、イギリスの現在のウィンザー朝(エリザベス皇太后、エリザベス女王、チャールズ皇太子。ダイアナ妃は人間の血を混入するのに最適な金髪碧眼だったため選ばれた、とか、本に書いてあります。)





 私がこの本を手に取るきっかけとなったのは、ある人から、「とももこういうことを知っておいた方がいいよ」と勧められたからです。いますよね、某ユダヤの富豪とか、某ヨーロッパの秘密結社とか好きな人。
 でも、私はそういう考え方に反対でした。というのは、「自分以外の者が陰謀で世の中を悪くしようとしている」というコンセプトほど、強力な中毒物質はないからです。自分の問題に目をそむけることができる。そんなのみんな自分の責任なのにねえ。

 ところが、なのです。

 ちらりちらりと盗み読みするうち、私の中には「ああっ! そうだったのか」と思う考えがわきあがってきたのです。

 そのことを、私は、本を教えてくれた人にいえませんでした。


「私が愛した人は、レプティリアンだったかもしれません」とはね(笑)

 ましてや、私をローフードの世界に導いたのは、ほかならぬ、そのレプティリアンだった、などとは。

 続く。

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posted by 石塚とも at 21:48| Comment(10) | ちょっと哲学的なこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月02日

健康(ローフード)8:2の法則

 ローフードが認知されていろいろな情報が入ってくるようになって、嬉しい反面、悩んでしまうこともも増えて、「あれ? ちょっとローが楽しくないな」と思うことがときどきありました。

 それはね、「どっちが本当なの?」「どっちが正解なの?」と思うような情報も増えてしまったからです。「キャロブとココア、どっちがいいの?」とか、「お腹いっぱい食べてもいいの? それとも腹八分目がいいの?」とか、「ナッツ食べ過ぎってそんなにいけないことなの?」「『動物は加熱食品はとらない(ロー100パーセント推奨)』『加熱じゃないととれない栄養もある(ローヴェジ100だと心臓病のリスクが上がるそうな)』、さてどっち?」とか。
 なんだかだんだん「やるのに罪の意識を感じること」が増えてくる。ローを始めたころ、ローというのは、「自分がいちばんおいしいと思うものをたらふく食べてしかもスリムで健康になる超むしのいい話」であったのに。(そうでなければ、私は決してローの魅力について語ろうとは思いませんでした)

 もちろんもっと勉強したいという純粋な好奇心はあるのですが、一方で、情報の奴隷になってしまうことが健康といえるのかなあ、という気持ちもあり。
 かといって自分もあれよあれよとしゃべる立場ですし、古い情報をお伝えてしてしまっても困るなあ、と、ちょっとプレッシャーも感じてたおり。

 そんなことでぐるぐる回りそうになったとき、ふっと思い浮かんだことがあるのです。
 それが「8:2の法則」でした。

 突然ですが、皆さん、クローゼットの中の2割の服で、日常生活の8割はまかなえていませんか?(残りの8割の服が生活に貢献するのは2割)。2割の努力で、人間関係の8割はうまくいっていませんか?(あなたの人間関係の悩みの8割にエネルギーを割かせる人は、あなたの生活の2割にしか寄与しない)。

 健康(ローフード)にも、8:2の法則があると思うのです。つまり、あなたの生活に寄与する8割の効果は、ローフードの中で覚えるべき2割の情報でまかなえるのではないか、と。

・朝食は果物かジュース、スムージーなど極力消化に負担のかからないものにする。
・昼食、夕食は水分の多い野菜をたっぷり食べた後、他の食べ物を一品(加熱タンパク質、加熱炭水化物、ローたんぱく質のいずれか)食べる。めざすは水分の多い野菜と果物が1日の食事の8割。
・水分は、コーヒー、紅茶、酒、清涼飲料水からはとれない。野菜か果物、次善策として水。
・食物酵素は約48度で壊れることを忘れない。
・消化の24時間サイクルを心にとめる。

 ざっと書いてみたけど、この5つで、ローフード(酵素栄養学)の情報の基本の2割にも満たないと思うんですよね。でも、この5つを覚えていたら、あなたの健康に対して8割のパフォーマンスは出せると思うの。
 ココアの食べ過ぎとはどうだとかナッツの食べ過ぎはどうだとか、ローヴェジ100は本当に安全なのかとか、最新の情報では、タンパク質と炭水化物は胃の消化部位が違うから混ざったりしない(「フィット・フォー・ライフ」の松田先生の補遺に出てる)とか、知りだすとキリがないのだけれど、それらが健康に与えるパフォーマンスって2割の部位だと思うの。
 
 それなのに、どうして知る方にどんどん行ってしまうかというと、実は、「情報」というのもかなりの中毒物質だから。「中毒物質」の定義は、「あなたをあなたが本来目を向けるべき自分の中の問題から目をそらさせるもの」ということです。
 「知る」ことは力になること。でも、「知らないことが怖いこと」と恐怖に駆り立てる側面ももっているのです。(「知らないと病気になる」の一言がつくととくに)。
 その恐怖のエネルギーにかられたとき、「健康という名の不健康」に向かって走ってしまうことになります。

 そんなわけで、私自身、「あ、それ知らないとやばいのでは?」と恐怖にかられたときは、基本にたちかえって、「8割のパフォーマンス」にフォーカスするようになったら、とてもラクになりました。
 「この食品はどうなの?」「この食べ方はどうなの?」と心配になったときは、もしかして、あなたが1日延ばしにしている問題があるときかもしれませんね(かなりの確率で)。そういうときは、机の書類を整理したり、長年心にひっかかったままの人に気持ちを伝える手紙を書いたり、家の汚れた窓でもふいたほうがいいかもしれません。


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2009年02月14日

お金が欲しいですか?

 バレンタイン・デーなのに愛を語らずお金の話を語ろうと思います^^;

 今「欲しい」と思っているものが二つあります。一つは新しいキッチンセット。うちのマンションは古いだけあって大家さんから(というより仲を取り次いでくれているY不動産の「私の六本木の姉」Kさんから)「何してもいいわよ」といわれているので、キッチンをとっかえちゃいたいのです。うちのキッチンは大きくて立派だけど、古い分収納効率が悪いので。

 そしてもう一つ欲しいもの……。それは「アシスタント」です!
 まだまだブログに書きたいこともありますが、時間が足りません。時間が許せば、1日3本ずつ記事投稿したいぐらいなのです。コメントのお返事ももうちょっと早く丁寧に返したいし、レシピもこんなに荒っぽい書き方じゃなくて次の本にできるようにちゃんとまとめておきたいし、レシピ用の写真だってきれいに撮っておきたいのです。我が家では、私の手が止まってしまったら家事運営は1ミリたりとも動きません(だってひとりしかいないんだから)。ブログの文章は私が書くから料理の写真を撮ったり、写真のサイズを加工してアップしてくれたり、領収書の整理をしてくれたり、クリーニングを取りにいってくれたり、ゴミを下に出しにいってくれたりしてくれる人がいたらいいなあ、と、いつも思っていました。読者の皆さんも、私がクリーニング出しに行くのに時間を使うよりは、次の記事をアップすることに時間を使って新しい情報を読めた方がいいと思うんだけど。

 で、キッチンの方はとりあえずなんとか使えるとして(これでも一人暮らしとしてはずいぶん恵まれたキッチンであることは承知しています)、アシスタントの方ですが、ついにやってくれる人が現れました。
 彼女は私が5年も前からなぜかひかれる人で、以前から「アシスタントやって、いつでもローフード食べさせてあげるから手伝いに来て」と言い続けていたのに、今まで全然やる気にならず、ところが今回、「あと一週間でどうしてもやせないといけないんです、今こそ私が変わるときなんです」といってやってきたのです。
「だから前からいってるじゃん〜」と泣きついたら、
 昨日夜の11時ごろやってきて、山中湖から開梱したばかりの段ボールを全部たたんでくれた!(感涙)
 
 最近、「収入が増える」というより支出がばんばん減ってます。買ったものは必ず使うものばかりなので、コストパフォーマンスが高いです。「欲しいもの」を「貨幣価値」に置き換えるととても高くついてしまうのだけれど(アシスタントをまともに雇ったら、そのために働くようなことになってしまう)、欲しいものがそのままの状態でやってきてくれるからです。
 最近は心のこもった食材をいただくことも多く、裏庭でとれたレモンだの完全ロー仕様ののりだの、ぬいたばかりのダイコンだの、最高級金ごまだの、最高級ローカカオパウダー(Sun Organic 社のは他社のと風味が段違いでびっくり!)だのがやってきてくれます。「ナチュラルライフ」とは縁遠いはずの、大都会西麻布の小さなアパートが、オーガニックな生命にあふれています。

 私は、「ローフードは資本主義のあり方を変える」と思っています。それは菜食にすると森林破壊に歯止めがかかるとか飢餓問題が緩和できるといった特定の状況の変化ではなく、「人が、本当に自分の欲しいもの、必要なものを選択できるようになる」という状態になると思うのです。消費者のニーズから「現実逃避」という商品が減り、先進国での問題「豊かであるはずなのに満足感がない」という状態を突破できる鍵となると思うのです。


 テスト的に開催中のロー・フィロソフィー・ナイトも、一応「貨幣価値」で計算するとああいう金額設定になっちゃったんですけど、今後は、うちに来てち2〜3時間家事手伝ってくれたら一食ごちそうする、っていう方がずっといいなあ。「ナイト」だとわざわざそのために調理しないといけないけど、普段の食事ならどうせ1人分作るのも2人分作るのも一緒だし。プレパレーションとか見てもらえるし。
 これ読んでぴぴっと来た方、ちょいとメールしてみてください。運命というのは、こういうときにころっと転がるものですよ。

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posted by 石塚とも at 22:34| Comment(19) | ちょっと哲学的なこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月09日

加熱食は「手書きの手紙」のようなもの

 ローフードはおいしいこともわかったし何より身体が求めているけれど、加熱食が食べたくなくなってしまう人生を考えると、なんだか味気ない……。
 そんなふうに感じている方がおられるのではないかと思います。

 その状況を、私は、20年以上前、ちょうどワープロが出てきて「ワープロか、手書きか」みたいに世の中が分かれたときと似ているなあと感じています。

 大学を出て私が出版社に入社した頃は、上司から、「新人はまだワープロで書かない方がいい。ものを書くとき大事な『気』が入らなくなってしまう」って、真顔で言われたんですよ。

 つまりその上司は、「気」をいれることと、「手」で書くことが深く結び付いており、それ以外の因果関係は考えられなかったんですね。

 そして、たしかにそのころ、ワープロで書いたものには「気」が入らない、という気持ちもわからないではなかったのです。
 それは、人々がワープロという歴史が浅いものを見たときに思い起こす「ストーリー」がなかったからです。

 でも、ワープロを使って人がコミュニケーションを始めると、あっというまにワープロも「気」が伝わる道具として認識されるようになりました。
 パソコンとインターネットも同じで、タイピングとちょっとした英語を覚えさえすれば、世界中の人と「心の交流」ができるとわかったとたん、人は「手書きの手紙」から「ネット」へと、あっというまに流れていきました。

 ローフードもそれと同じで、それを作って食べることで笑顔の体験、心の交流の体験、忘れられない食事になる体験が増えていけば、そしておいしくて身体にいいのということがわかれば、人はあっというまに流れを変えることは大いに考えられるのです。
 今のところ(文化としての)食事としての歴史が浅いローフードは「健康によい」という、情緒的ではない宣伝のみがされがちです。でもこれから、家族でローを食べたり、恋人と食べたり、ときには別れの席で切なく食べたりすれば、……つまり、ローフードが感情とともに人々の記憶にしみこんでいったとき、ローフードは、もう元の生活には戻れない、人々の生活の一部となると思うのです。

 手書きの手紙がなくならないように、加熱食もなくならないと思います。でも、今は手書きの手紙を書くのが「そうしなければいけない特別の理由」があるときにしか使われないように、加熱食も、特別な食事になっていくんじゃないかなーと思います。

 信じられない? でも、私の上司は、編集部全員が原稿をタイピングする時代が来るなんて、想像もしていなかったんですよ。「ワープロは根付くか」なんて新聞記事特集がまじめに組まれていたんですよ。たった20年前。
 それを思うと、私は、今、「信じられない」と思う感覚がどれだけあてにならないか、どこか頭の隅に入れて考える必要があると思うのです。

 ブログ村のランキングが、150位にまで入りました。ご協力くださった皆様の1ポチ1ポチに感謝申し上げます。
 「ロー・フーディストな世の中」というと、がちがちローなイメージになってしまうけど、みんなが「ローの法則」を「引き寄せの法則」と同じぐらい意識する、「ロー・コンシャスな世の中」になったらいいなと思います。大きくて静かなムーブメントを作っていきたいです。
 よろしくお願い申し上げます。
 ご協力に感謝いたします。

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posted by 石塚とも at 21:31| Comment(2) | ちょっと哲学的なこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月05日

「心から芽が出る」という感覚

 こういう言い方をしたら「言霊」信仰的にはアウトなのかもしれませんけど、私はあまり安全ではない家庭で育ちました。

 私の家は自営業をしていて社員や取引先の人がよく出入りする家でしたが、その人たちから、

「あなたたちが子どものころ、なんてかわいそうな家に育ってるんだろうと思ってた」
 とか、
「こんなに冷え冷えとして愛がない家は初めて見た」
 とか、
「ふつうはお父さんが帰ってきたら子どもというのは喜ぶものなのに、今までリビングで遊んでいた子供たちがさーっと逃げ出してしまうのを見てショックを受けた」
 とか、
 ずっと後になってから(会社が解散するときに)いわれました。

 母は46歳でガンで死にました。そこに「尊厳」というもののかけらを見ることもできません。入院してからも「看護婦さんによくしてもらうこと」ばかり考えているようでした。その当時の母の日記を見たら、「お見舞いをいただいた方へのお返しリスト(取引先ばっかり)」「看護婦さんたちへの差し入れリスト」あと「今日出たうんこの量」しか
書いてなくて愕然とした記憶があります。

 最後のころ「生きるのが面倒くさくなった」といっていました。
 きっと、自分がしたいことが何なのかもうわからなくなっていたのでしょう。

 今だにその影を引きずっている部分はあり、家族の者のすんごいネガティブネスや依存に唖然とすることもあります。


 でも、ローフードを食べて得られたのは、人間誰にしもネガティブな部分はあると思うのですが、他人のそれを「引き寄せない」という感覚です。

 
 それは、自分の中のネガティビティが洗い流されるので、引き寄せる吸引因子がなくなってくるのです。
 今までは、私が相手のネガティビティを必要としていたのです。
 私が「そんなことはもう必要ない」と思えば、それらは二度と起こらなくなるのです。

 そして、過去を消したり変えることはできないのですが、
 新しい「未来」が自分の中に育ってくるのです。
 自分の心の中にスプラウト・プレートがありましてね、そこからわーっと発芽してくるの。その芽が新しい世界観に向かってまるで太陽に向かうように伸びてゆくのです。

 それは、家族とか親戚とか、長くつきあっている人と接しているととてもよくわかります。
 同じ人でも違って見えるからです。

 住んでいる家とかも、違って見えます。
 前は引越しするのが好きだったけど、今は(この部屋をとても気に入って借りた、というのもありますけど)本当にこの部屋が大好きで、もっと手入れするのを楽しみにしています。

 
 話は全然違いますが、ブログ村のことなんですが、「ローフード」や「菜食」をクリックすると訪問者は他の方のブログ(情報)にもアクセスすることができるので、あんまりランキング好きじゃないけど参加していました。このブログの訪問者の方に他の情報もたくさん取り入れて取捨選択していただくことが狙いでしたので、あまり「応援してね」みたいなことも書きませんでした。
 ところが、一時「ローフードのブログ」なんていうあまりに地味なブログなのに、総合で600位ぐらいまで行ったので驚きました。ランキング表を見て「ローフードって何?」って思って訪問するようになってくださった方もいらっしゃいます。
 せっかくだからどこまでいけるかやってみたいので(笑)、またローフードがいったいどこまで広まるのか? 自分でも興味があるので、よかったら、記事を読んだあと、クリックしてみてください。

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posted by 石塚とも at 00:14| Comment(5) | ちょっと哲学的なこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月31日

ローフードを食べ続けたら世界は平和になりますか?

 私は、今パレスチナで何が起きているかとか、アフリカで何が起きているかとか、グアンタナモで何が起きているかとか、知ることはとっても大事だと思うのですが、それをやってる人に「やめなさい!」ということには賛同していません。彼らの行為を「戦争利権がほしいからでしょ」と言語化することにも。なぜなら、彼らは彼らなりに「決意」があってやっているので、決意があるものを止めることはできないということと、「やめなさい」という「他者を変えたいエネルギー」を向けることが、ますます彼らの行動に推進力を与えるだろうと思うからです。

 逆に、ローフードに希望を感じているのは、徹底的に、100パーセント、「自分を変える」という方向に変革のエネルギーをシフトさせることができるからです。

 世界が一つの身体であると考え、また、世界で紛争が起きている場所を「ガンがある場所」と考えると、今自分がコントロールるできる自分の身体は、小さいけれど大事な毛細血管の一つであると考えることができます。毛細血管の流れを良くしていけば、だんだん身体全体の流れも良くなっていくことでしょう。

 もう一つ、ローフードには、世界の異文化への味に親しみやすくなり、自分の固着文化にこだわらなくなってくる、というパワーがあります。
 私は旅行先で「変な味」って食べられない方なんですけど、ローフードで食べる「初めての味」はいつもおいしい。自分の中に「世界のおいしい味」という引き出しがいっぱいできるので、年越しそばを食べなくてもおせちを食べなくても雑煮を食べなくてもますます平気になっていきます(かずのことか伊達巻きだしなあ…)。昨年よりもさらにそういう味への興味がなくなったなあ、っていう気がしています。

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posted by 石塚とも at 18:48| Comment(1) | ちょっと哲学的なこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月27日

でもやっぱり人間はその土地のものを食べて進化してきたんだし、その土地のものを食べるのがいいんじゃないですか?

 私、反対に、現代というサルとは違う時代に、いろいろな土地のものを食べ始めたら、また、内臓の形とか変わらないかなーと思って楽しみにしてるんです。
 SFっぽいでしょ(笑)

 さすがに肌の色がすぐに(100年スパン?)変わったり腸の長さが変わったりしないと思いますけど。

 実は、ニュータイプって、腸の中がクリアになってインスぴレーションがバリバリによくなった人たちのことだったりしてね(ガンダム世代)。

 あとね、加熱食の歴史は、戦争の歴史だって、みんな気がついてるかな? いもの煮っ転がしのしょうゆの量がちょっと違うだけで、「うちはこうだった」「いやこっちのほうがいい」って、嫁と姑で戦争してるじゃない。

 加熱加工というのは自分のコントロールで手を加えられること。だから、自分のエゴが入り込みやすい。自分の期待する味の範囲が狭くなってしまい、他人が作った味が許容しずらいのです。

 ローフードって、多少の味の好みに違いはあるけど、どの料理人が作ってもわりと想定内にできあがる。それは、「加工」より「素材」が占めるウエイトが大きいから。「人の手」より「自然」の割合が強いのです。

 「お前の母ちゃんが作ったもののより、うちの母ちゃんが作ったもののほうがうまい」、すべての戦争は、このいがみ合いから始まってるんじゃないかと思いますが、ロー率が高まると、そういう拮抗がもはやありえなくなるんじゃないかとさえ思っています。
 私だったら、自分のお母さんが作ってくれたものも、向かいの家の(もしかしたら民族が違う)おばさんが作ってくれたものも、ローだったら喜んで食べちゃう気がします。
 ↓
 つまり、ローになるということは、「家族」とか「共同体」に対する精神的紐帯の持ち方も変わってくる、固有性への執着がゆるんでくるんじゃないかと思うんです。

*****************************************

 今日のお話はここまで。
 フルーツ断食5日目になってしまったせいか(昨日から差し入れの野菜スープは少し飲みました)、お肌がつるつるです。相当身体の中きれいと思われます。


 明日から数日更新なしですが、年内にはまだ書きます!(書きたいこと、いっぱいあるのです)
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posted by 石塚とも at 00:21| Comment(1) | ちょっと哲学的なこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月25日

地産地消を超えて

 人間って、「交換したい生きもの」だと思うんです。

 これが、動物との大きな違いです。大脳のいかなる働きでそうなったのか、火食がどう関係しているのはわかりません。NHKの番組では、お肉食べるようになって大脳が発達して言葉ができてコミュニケーションするようになった、っていわれてるけど、そういう文明になる前から、僕の木の実と君の葉っぱを交換しよう、そしたら楽しい、みたいなことがあったんじゃないかと思っちゃうんですが(例によってまったく科学的根拠はありません)

 今は、遠くに出掛けて行って、そこで知り合って友情や愛が生まれる時代。ひとは「出会う」生きもので、そこもサルとは違います。恋人や親せきができれば、自分の「地」は、今まで人間が経験しえなかった理由で広がることになります。
 ローフードは、その人間の新しい歩みにもフィットすると思うのです。

 ローフードが、フェア・トレードにすごく貢献するだろうと思っている理由は、4つあります。

・ひとつは、ナッツやドライフルーツなど、防腐加工の方法が、「乾燥」という、昔ながらのものであること。(生鮮食料品はもちろんその限りではないですが、わざわざグリーンの輸入を推奨しているわけではりません。緑の葉っぱが近くでとれたものが一番おいしい、ってことは、ベランダ・プランターである私は日々実感しております)


・ふたつめは、自分たちが輸入してでも食べたいものは、現地の人にも食べてもらいたいものであること。
 「どうしよう? アボカドなかったら困るわ」って思ってる日本のローフーディストたくさんいると思いますけど、海の向こうにも「日本のワカメなかったら困る」って思っているローフーディスト、たくさんいます。
 ここが、今「グローバル経済」と呼ばれてしまっているもの(実際には「グローバル・アンバランスド・経済」というべき?」と大きく違うと思います。今は、東南アジアの田んぼ壊してエビの養殖したり、ヴィクトリア湖で巨大魚(ナイル・パーチ)釣ったり、現地の人の口に入らないものを輸入している。不要な栄養をとるために、必要なものまで奪っている。

・3つめは、食べ物を通じて、異文化にかなり感情移入ができるようになること。
 私は、今の食品流通で、現地の人に気持ちがはせられないのは、「本当に必要なもの(栄養)を得ていない」からじゃないかと思うのです。ローフーディストになってから、「あー、これ作ってくれたアボカド農家さんありがとう」とか思うようになりましたもん。たとえドール・バナナのときでも。
 「デーツの世界最大の産出国って、イラクだったんだ〜(今はとても輸出なんかできない)」って聞いて初めて、ただの情報とは違う、身体に響く胸が痛むものがありましたもの。そういえば、ローやるとすごく中東の味フレンドリーになるよね。


・最後に、本当に必要な栄養が満たされるので、よけいな食欲や物欲が減り、マクロ的には物流マイレージは減少するだろうと考えていること。これは、自分の買い物の仕方の変化をみるとすごくよくわかる。


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posted by 石塚とも at 19:37| Comment(2) | ちょっと哲学的なこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月22日

「地産地消」に納得してないわけ

 このエントリーのタイトルをよっぽど「地産地消がダメなわけ」にしようかと思ったんですけど、そこまで攻撃的になる必要もなかろうと、中庸の姿勢にしてみました。
 でもまあ、納得してないことは間違いないです。
 
 理由はね、「地産地消」ってスローガンをかかげちゃうと、いちいち罪の意識にしばられる感じがするから。

 映画『パリ、恋人たちの二日間』の中で、監督にして主演のジュリー・デルピーが、「女ってなんて悲しい存在なんでしょう。女の方が男の4倍も(だったと思う)トイレットペーパーを使うのよ。森林破壊に貢献してしまう!」といって悩んでましたが、ああやってパロディにできるぐらい、真面目になりすぎるときついです。

 そしてね、私にはもう一つ、どうしても納得できないことがあるんです。

 それは、

「いったいどこまでが、自分の【地】なの?」という疑問に、【地産地消】というコンセプトは答えてくれないこと。

 私は、ローフードに必要な食材は、「トレードしちゃうのは仕方ない」ではなく、「適度にトレードしたほうがいい」と思います。
 そのことによって、本当の「フェアトレード」なエネルギーの流れを作っていけるのがローフードの魅力だと思っています。

 何回かこのテーマについて書いていきます。


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posted by 石塚とも at 20:49| Comment(7) | ちょっと哲学的なこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月06日

摂食障害

 12月2日に行われたメディRの講座を企画してくれた根来佑さんが、次のように報告を書いてくれました。

http://d.hatena.ne.jp/negorin/20081204/1228407211

 私、ローフードで効果が出た人からメールをいただいて、プロデューサーのゆみちゃんから「嬉しいね」っていわれても、
「私じゃなくてローフードがやってることだもん」とか「【他人に喜ばれるのが最大の喜び】って共依存のもっともやばい症状なんですけど」って思ってすごく冷めてるんですけど、
 ↓これは読んでちょっとうるっときた。

http://d.hatena.ne.jp/negorin/20081203/1228328908

(プロの作家が映像作家の書く文章に泣かされちまったぜ)

 私には摂食障害の経験はありません。「摂食管理」なら長年やってきたけど。(だから、ローフードを覚えた今頃になってはめをはずして食べまくっている、ときには加熱食も)
 だけど、根来さんが書いてくれたこの文章は、「平和運動を自分が当事者としてどうとらえるか」を見事にとらえていて、やっぱり自助グループあがりってすごいな、と思った。これは、「地雷を撤去する」とか「戦争を計画している人たちの存在をあきらかにする」とかいう平和運動とはまったく違うアプローチだけど、私は今、あらためて、こっちの効果の高さを実感しています。
 
 人の心のとてもやっかいな部分に「共通の仮想敵を作ると結束しやすい」というのがあるんだけど、
 ローフードというのは、「自分の敵は、自分の中の不要物にある」「その敵(不要物)と戦うのではなく、ひたすら流していって、自分の身体の中からお引き取りいただく」という方策をとるわけです。

「様々な性トラウマをかかえて、そして苦しんで来た友だちを多く知っているからこそ、「ああ・・・こういうアプローチがあったんだなあ」って感嘆した。何しろトラウマ治療というものは難しい理論を英語の専門書を読み解いて学ばなければならなかったり、二日で30万もするワークショップを受けねばならなかったりで、いつも「もっと安くて継続的にできて安全な治療は無いのか?」って思って来たからです。」
(根来さんの日記から)


 これは摂食障害の人だけじゃなくて、「今よりも質の高い生き方」を目指す人にとって、誰でもそうじゃないかと思います。高い自己啓発セミナーに通ったりしないで手近にあるもので無理なくできないか、というニーズに、まさにローフードはぴったり。

 というような話を12月2日の講座で話したわけですが、「大丈夫かこんなとっちらかった話で!?」と思いましたが大変好評につき、1月14日にも行います。一応初めての人対象ですが、2回目以降の方もそれなりに気づきがあるかも。
 今、メディRで「申込」のページを作っていますので、そちらからお申し込みください。直接予約のメールを送っても大丈夫です。

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posted by 石塚とも at 21:04| ちょっと哲学的なこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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